殖細胞のクロモソームを通して子孫に伝わるのでなくして、むしろ「教育の効果」として伝わるのかもしれない。われわれのまだ物心のつかないような幼時に、母親とか子守《こも》りとかといっしょにいた時に、偶然それらの動物を目撃してそれを意識した、その同じ瞬間にその保護者なる母なり子守りなりが、ひどく恐怖の表情を示したとすると、そのときの劇動が子供を驚かせおびえさせ、その恐怖の強烈な印象経験がその動物の視像と連想的に固く結びついてしまった、と考えると一応はもっともらしく聞こえる。この仮説は非常なめんどうさえいとわなければ多くの実例について一々調査した上で当否を確かめ得られるであろうと思われる。
 それにしてもまだどうにも説明のできないと思われるのは、自分の場合における次の実例である。
 梨《なし》の葉に病気がついて黄色い斑紋《はんもん》ができて、その黄色い部分から一面に毛のようなものが簇生《ぞくせい》することがある。子供の時分からあれを見るとぞうっと総毛立って寒けを催すと同時に両方の耳の下からあごへかけた部分の皮膚がしびれるように感ずるのであった。
 それから少しきたない話ではあるが、昔|田舎《いなか》の家には普通に見られた三和土製《たたきせい》円筒形の小便壺《しょうべんつぼ》の内側の壁に尿の塩分が晶出して針状に密生しているのが見られたが、あれを見るときもやはり同様に軽い悪寒《おかん》と耳の周囲の皮膚のしびれを感ずるのであった。
 梨《なし》の葉の病の場合はあるいは毛虫などとの類似から来る連想によるかもしれないが、後の針状結晶と毛虫とでは距離があまりに大き過ぎるようである。むしろありまきやうじや蚤《のみ》などのようなものが群集したところを連想するのかもしれない。そうしたものが自分の皮膚にとりついていると想像すればぞっとするのは当然かもしれない。
 こんなふうに虫やそれに類したものに対する毛ぎらいはどうやら一応の説明がこじつけられそうな気がするが、人と人との間に感じる毛ぎらいやまたいわゆるなんとなく虫が好く好かないの現象はなかなかこんな生やさしいこじつけは許さないであろう。ただもし非常な空想をたくましくすることを許されるとすれば、自分はここにも何か遺伝学的、優生学的、生理学的な説明が試み得られそうな気がする。ただ気がするだけでまだ具体的な材料を収集することができない。
 それはとにかく、年を取るに従っていろいろな毛ぎらいがだんだんにその強度を減じてくることは事実である。そうして同時に好きなものへの欲望も減少し、結局自分の中の「詩の世界」の色彩があせてくることもたしかである。
「毛ぎらい」と「詩」と「ホルモン」とは「三位一体」のようなものかもしれないのである。
[#地から3字上げ](昭和十年三月、中央公論)

     十二 透明人間

 映画「透明人間」というのが封切りされたときには題材が変わっているだけに相当な好奇的人気を呼んだようである。トリック映画としてもこれはともかくも珍しく新しいもので、われわれのような素人《しろうと》の観客には実際どうして撮《と》ったものか想像ができなかった。それだけにこのトリックは成効したものと思われた。
 この映画を見ているうちに自分にはいろいろの瑣末《さまつ》な疑問がおこった。
 第一には、この「透明人間」という訳語が原名の「インヴィジブル・マン」(不可視人間)に相当していないではないかという疑いであった。
「透明」と「不可視」とは物理学的にだいぶ意味がちがう。たとえば極上等のダイアモンドや水晶はほとんど透明である。しかし決して不可視ではない。それどころか、たとえ小粒でも適当な形に加工|彫琢《ちょうたく》したものは燦然《さんぜん》として遠くからでも「視《み》える」のである。これはこれらの物質がその周囲の空気と光学的密度を異にしているためにその境界面で光線を反射し屈折するからであって、たとえその物質中を通過する間に光のエネルギーが少しも吸収されず、すなわち完全に「透明」であっても立派に明白に顕著に「見える」ことには間違いなく、見えないわけにはどうしてもゆかないのである。
 反対に不透明なものでもそれが他の不透明なものの中に包まれていれば外からは「不可視」である。
 こう考えてみると「透明人間」という訳語が不適当なことだけは明白なようである。
 そこで、次に起こった問題はほんとうに不可視な人間ができうるかどうかということであった。ウェルズの原作にはたしか「不可視」になるための物理的条件がだいたい正しく解説されていたように思う。すなわち、人間の肉も骨も血もいっさいの組成物質の屈折率をほぼ空気の屈折率と同一にすれば不可視になるというのである。びん入りの動物標本などで見受けるように、小動物の肉体に特殊な液体を滲透《しん
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