じがその全力を尽くすのである。尊重はしても軽侮すべきなんらの理由もない道理である。
 うじが成虫になってはえと改名すると急に性《たち》が悪くなるように見える。昔は五月蠅《ごがつばえ》と書いてうるさいと読み昼寝の顔をせせるいたずらものないしは臭いものへの道しるべと考えられていた。張ったばかりの天井に糞《ふん》の砂子を散らしたり、馬の眼瞼《まぶた》を舐《な》めただらして盲目にするやっかいものとも見られていた。近代になってこれが各種の伝染病菌の運搬者|播布者《はんぷしゃ》としてその悪名を宣伝されるようになり、その結果がいわゆる「はえ取りデー」の出現を見るに至ったわけである。著名の学者の筆になる「はえを憎むの辞」が現代的科学的修辞に飾られてしばしばジャーナリズムをにぎわした。
 しかしはえを取り尽くすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時にうじもこの世界から姿を消す、するとそこらの物陰にいろいろの蛋白質《たんぱくしつ》が腐敗していろいろの黴菌《ばいきん》を繁殖させその黴菌は回り回ってやはりどこかで人間に仇《あだ》をするかもしれない。
 自然界の平衡状態《イクイリブリアム》は試験管内の化学的平衡のような簡単なものではない。ただ一種の小動物だけでもその影響の及ぶところは測り知られぬ無辺の幅員をもっているであろう。その害の一端のみを見て直ちにその物の無用を論ずるのはあまりに浅はかな量見であるかもしれない。
 はえが黴菌をまき散らす、そうしてわれわれは知らずに年じゅう少しずつそれらの黴菌を吸い込み飲み込んでいるために、自然にそれらに対する抵抗力をわれわれのからだじゅうに養成しているのかもしれない。そのおかげで、何かの機会にはえ以外の媒介によって多量の黴菌を取り込んだときでもそれに堪えられるだけの資格が備わっているのかもしれない。換言すればはえはわれわれの五体をワクチン製造所として奉職する技師技手の亜類であるかもしれないのである。
 これはもちろん空想である。しかしもしはえを絶滅すると言うのなら、その前に自分のこの空想の誤謬《ごびゅう》を実証的に確かめた上にしてもらいたいと思うのである。
 あえてはえに限らず動植鉱物に限らず、人間の社会に存するあらゆる思想風俗習慣についてもやはり同じようなことが言われはしないか。
 たとえば野獣も盗賊もない国で安心して野天や明け放しの家で寝ると風邪《かぜ》をひいて腹をこわすかもしれない。○を押えると△があばれだす。天然の設計による平衡を乱す前にはよほどよく考えてかからないと危険なものである。

     十一 毛ぎらい

 子供の時から毛虫や芋虫がきらいであった。畑で零余子《むかご》を採っていると突然大きな芋虫が目について頭から爪先《つまさき》までしびれ上がったといったような幼時の経験の印象が前後関係とは切り離されてはっきり残っているくらいである。
 芋虫などは人間に対して直接にはなんらの危害を与えるものでもなし、考えようではなかなかかわいいまた美しい小動物であるのに、どうしてこれが、この虫に対しては比較にならぬほど大きくて強い人間にこうした畏怖《いふ》に似た感情を吹き込むかがどうしてもわからない。
 何かしら人間の進化の道程をさかのぼった遠い祖先の時代の「記憶」のようなものがこの理由不明の畏怖|嫌忌《けんき》と結びついているのではないかという疑いが起こし得られる。猿《さる》や鳥などが、その食料とするいろいろの昆虫《こんちゅう》の種類によって著しい好ききらいがあって、その見分けをある程度までは視覚によってつけるらしいということが知られている。それでたとえばわれらの祖先のある時代に芋虫や毛虫を食ってひどい目に会ったという経験が蓄積しそれが遺伝した結果ではないかという気もするが、そうした経験の記憶が遺伝しうるものかどうか自分は知らない。ただそんなことでも考えなければちょっと他に説明の可能性が考えられないではないかと思われる、それほどにこの嫌忌の起原が自分には神秘的に思われるのである。
 蛙《かえる》をきらいこわがる人はかなりたくさんある。それから蜘蛛《くも》や蟹《かに》をきらう人も知人のうちにある。昔からの言い伝えでは胞衣《えな》を埋めたその上の地面をいちばん最初に通った動物がきらいになるということになっている。なるほど上にあげた小動物はいずれも地面の上を爬行《はこう》する機会をもっているから、こういう俗説も起こりやすいわけであろうが、この説明は科学的には今のところ全然問題にならない。所を異にした胞衣《えな》とそのもとの主との間につながる感応の糸といったようなものは現在の科学の領域内に求め得られるはずはないからである。
 ことによると、この「嫌忌《けんき》の遺伝」は、正当の意味での遺伝として生
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