くのである。また吸い出しては食い切る。きたないと言えばきたないが、しかしそこには一種の俳諧《はいかい》があった。つい近ごろどこかのデパートでこれと同じものを見つけたが食ってはみなかった。おそらく四十年前の味は求められないであろう。
おもちゃではポペンというものが一時流行した。首の長いガラスのフラスコの底板を思い切り薄くして少しの曲率をもたせて彎曲《わんきょく》させたものである。その首を口にふくんで適当な圧力で吹くと底のガラスの薄板がポンという音を立ててその曲率を反転する。逆に吸い込むとペンと言ってもとの向きに彎曲する。吹くのと吸うのを交互に繰り返すと、ポペン/\/\というふうな音を出す。吹き方吸い方が少し強すぎるとすぐに底が割れてしまう。いわゆるその「呼吸」がちょっとむつかしい。これを売っている露店商は特製特大の赤ん坊の頭ぐらいのを空に向けてジャンボンジャンボンと盛んに不思議な騒音を空中に飛散させて顧客を呼んだものである。実に無意味なおもちゃであるがしかしハーモニカやピッコロにはない俳味といったようなものがあり、それでいて南蛮的な異国趣味の多分にあるものであった。
むきになって理屈を言ってる鼻の先へもって来てポペンポペンとやられると、あらゆる論理や哲学などが一ぺんに吹き散らされるところに妙味があったようにも思われる。
[#地から3字上げ](昭和十年一月、中央公論)
六 干支の効用
去年が「甲戌《きのえいぬ》」すなわち「木《き》の兄《え》の犬《いぬ》の年」であったからことしは「乙亥《きのとい》」で「木《き》の弟《と》の猪《い》の年」になる勘定である。こういう昔ふうな年の数え方は今ではてんで相手にしない人が多い。モダーンな日記帳にはその年の干支《かんし》など省略してあるのもあるくらいである。実際|丙午《ひのえうま》の女に関する迷信などは全くいわれのないことと思われるし、辰年《たつどし》には火事や暴風が多いというようなこともなんら科学的の根拠のないことであると思われるが、しかしこれらは干支の算年法に付帯して生じた迷信であって、そういう第二義的な弊が伴なうからと言って干支の使用が第一義的に不合理だという証拠にはならない。昔から長い間これが使われて来たのはやはりそれだけの便利があったからである。
十と十二の最小公倍数は六十であるから十干十二支の組み合わせは六十年で一週期となる。この数は二、三、四、五、六のどれでも割り切れるから、一年おきの行事でも、三年に一度の万国会議でも、四年に一度のオリンピアードでも、五年六年に一度の祭礼でも六十年たてばみんな最初の歩調をとり返すのである。その六十年はまたほぼ人間の一週期になるのである。
人間の生涯《しょうがい》でも六十年前の自分と六十年後の自分とはまず別人であり、世間の状態でも六十年たてばもう別の世界である。この前の乙亥は明治八年であるが、もしどこかに、乙亥の年に西郷隆盛《さいごうたかもり》が何かしたという史実の記録があれば、それは確実に明治八年の出来事であって、昭和十年でもなくまた文化十二年でもないことが明白である。
明治八年とだけでは場合によってはずいぶん心細いことがある。活字本だと、もしか九年の誤植であるかもしれない。隆盛《たかもり》はとにかく、事がらによっては十八年の十が脱落したという可能性もある。しかし明治八|乙亥《きのとい》とあればまず八年に間違いはないのである。年数と干支《かんし》が全部合理的につじつまを合わせて、念入りに誤植されるという偶然の確率はまず事実上零に近いからである。
それだから年号と年数と干支とを併記して或《あ》る特定の年を確実不動に指定するという手堅い方法にはやはりそれだけの長所があるのである。為替《かわせ》や手形にデュープリケートの写しを添えるよりもいっそう手堅いやり方なのである。
年の干支と同様に日の干支でもこれを添えることによって日のアイデンティフィケーションがほとんど無限大の確実さを加える。これに七曜日を添えればなおさらである。たとえば甲子《きのえね》の日曜日は一年に一つあることとないこととあるのである。
干支を廃し、おまけに七曜も廃するか、あるいはある人たちの主張するように毎年の同月日を同じ日曜にしてしまうというしかたは、一見合理的なようで実は存外そうでないかもしれない。
机や椅子《いす》の足は何も四本でなくても三本でちゃんと役に立つ、のみならず四本にするとどれか一本は遊んでいて安定位置が不確定になる恐れがあるというのは物理学初歩で教わることである。しかしその合理的な三本足よりも不合理な四本足が最も普通に行なわれているのは何ゆえであろうか。この問題はあまり簡単ではないが、ともかくも四本の一本がまさかのときの用心棒として平時には
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