は少しもわからなくてもさもおかしそうに笑っている人を見れば自分も笑いたくなると同様に、上手《じょうず》な俳優が身も世もあられぬといったような悲しみの涙をしぼって見せれば、元来泣くように準備のととのっている観客の涙腺《るいせん》は猶予《ゆうよ》なく過剰分泌を開始するのであって、言わば相撲《すもう》を見ていると知らず知らず握りこぶしを堅くするのとよく似た現象であろうと想像される。その上に少しばかり泣くために有効な心理的な機構が付加されていれば効果はそれだけで充分であって、前後を通じての筋の論理的のつながりなどはたいした問題にはならないのである。こういう見方からすれば、芸術的な高級演劇がさっぱり商売にならないで芸術などは相手にしない演劇会社社長の打つ甘い新派劇などが満員をつづけるのが不思議でなくなるようである。
 話は変わるが、日本では昔から「ものの哀れ」ということがいろいろな芸術の指導原理か骨髄かあるいは少なくも薬味ないしビタミンのごときものであると考えられていた。西洋でもラスキンなどは「一抹《いちまつ》の悲哀を含まないものに真の美はあり得ない」と言ったそうである。これから考えても悲哀ということ自身は決していとわしい恐るべきことではなくてかえって多くの人間の自然に本能的に欲求するものであることが推測される。ただ悲哀に随伴する現実的利害関係が迷惑なのである。
 悲しくない泣き方もいろいろある。あんまりおかしくて笑いこけても涙が出るが、笑うのと泣くのは元来紙一重だからこれは当然である。しかし感情的でない泣き方もいろいろあるのであって、その一特例としては、疲れたときにあくびをすると涙が出る。あくびをするときのわれわれの顔は手ばなしで泣きわめく時の顔とかなりまでよく似ている。うそと思う人は鏡を見ながら比較してみればわかる。このあくびというのがやはり緊張から弛緩《しかん》へ移るときに起こる生理的現象であって、とにかく顔面をゆがめ、声は出さなくても呼気を長くつき出し、そうしてぽろぽろ涙をこぼすのである。そうしてさんざんあくびをしたあとのさっぱりした気持ちも大いに泣いたあとのすがすがしいここちとどこか似ているようである。それだから、上手《じょうず》の芝居を見て泣くのも、下手《へた》の芝居を見てあくびをするのも生理的にはただ少しのちがいかもしれないと思われる。
 目に煙がはいったときや
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