が許されるようである。
 こういうふうに考えてくると流涕《りゅうてい》して泣くという動作には常に最も不快不安な緊張の絶頂からの解放という、消極的ではあるがとにかく一種の快感が伴なっていて、それが一道の暗流のように感情の底層を流れているように思われる。
 うれしい事は、うれしくないことの続いたあとに来てはじめてうれしさを充分に発揮する。このように、遂げられなかった欲望がやっと遂げられたときの狂喜と、底なしの絶望の闇《やみ》に一道の希望の微光がさしはじめた瞬間の慟哭《どうこく》とは一見無関係のようではあるが、実は一つの階段の上層と下層とに配列されるべきものではないかと思われる。
 この流涕の快感は多くの場合に純粋に味わうことが困難である。その泣くことの原因は普通自分の利害と直接に結びついているのであるから、最大緊張の弛緩《しかん》から来る涙の中から、もうすぐに現在の悲境に処する対策の分別が頭をもたげて来るから、せっかく出かけた涙とそれに伴なう快感とはすぐに牽制《けんせい》されてしまわなければならない。
 そういう牽制を受ける心配なしに、泣くことの快感だけを存分に味わうための最も便利な方法がすなわち芝居、特にいわゆる大甘物の通俗劇を見物することである。劇中の人物に自己を投射しあるいは主人公を自分に投入することによって、その劇中人物が実際の場合に経験するであろうところの緊張とそれに次いで来るように設計された弛緩とを如実に体験すると同等の効果を満喫して涙を流しはなをすする、と同時に泣くことの快感に浸るのである。しかもこの場合劇中人物のあらゆる事件│葛藤《かっとう》は観客自身の利害と感情的にはとにかく事実的になんの交渉もないのであるから、涙の中から顔を出して来るような将来への不安も心配も何もないのである。換言すれば、泣くことの快感を最も純粋なる形において享楽するのである。
 この享楽をいっそう純粋ならしめるためには芝居の筋などはむしろなるべく簡単なほうがいいらしい。深刻なモラールやフィロソフィーなどの薬味がきき過ぎて、大いに考えさせられたりひどく感心させられたりするようだと、大脳皮質のよけいな部分の活動に牽制されて、泣くことの純粋さがそこなわれることになる。そうした芸術的に高等な芝居が、生理的享楽のために泣きに行く観客に評判のわるいのはきわめて当然なことであろうと思う。
 原因
前へ 次へ
全50ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング