祝する座員ばかりの水入らずの宴会の席で、ポーラがふざけて雌鶏《めんどり》のまねをして寄り添うので上きげんの教授もつり込まれて柄にない隠し芸のコケコーコーを鳴いてのける。その有頂天の場面が前にあるので、後に故郷の旧知の観客の前で無理やりに血を吐く思いで叫ばされるあのコケコーコーの悲劇が悲劇として生きてくるのではないかと思う。しかしこの芝居にはそんな因縁は全然省略されているから、鶏のまねが全く唐突で、悪どい不快な滑稽味《こっけいみ》のほうが先に立つ。
映画と芝居は元来別物であるから、映画のまねは芝居ではできない。そのかわりまた芝居でなくてはできないこともある。それをすればおもしろいであろうが、この芝居では映画のいいところを大略もぎ取ってしまって、それに代わるいいものを入れるのを忘れているように思われた。そうしてせっかく新たに入れたものにはどうも蛇足《だそく》が多いようである。たとえば、最後の幕で、教授が昔なつかしい教壇の闇《やみ》に立ってのあのことさらな独白などは全くないほうがいい。また映画ではここでびっこの小使いが現われ、それがびっこをひくので手にさげた燭火《しょくか》のスポットライトが壁面に高く低く踊りながら進行してそれがなんとなく一種の鬼気を添えるのだが、この芝居では、そのびっこを免職させてそれを第二幕の酒場の亭主《ていしゅ》に左遷している。そうしてそこではびっこがなんの役にも立たないむしろ目ざわりなうるさい木靴《サボ》の騒音発声器になっているだけである。
終末の幕切れに教授の死を弔う学生の「アーメン」にいたっては、蛇足にサボをはかせたようなものではないかと思われた。
大学教授連盟とかいう自分にはあまり耳慣れない名前の団体から、このような芝居は教育界の神聖を汚すものだと言って厳重な抗議があったので、それに義理を立てるためにこのアーメンを付加したのだといううわさがある。これも後世の参考と興味のために記録に値する出来事であろう。
ウンラートが気が狂ったのを見て八重子《やえこ》のポーラが妙な述懐のようなことを述べるせりふがあるが、あれはいかにも、ああした売女の役をふられた八重子自身が贔屓《ひいき》の観客へ対しての弁明のように響いて、あの芝居にそぐわないような気がした。ポーラはやはり浮き草のようなポーラであるところにこの劇の女主人公としての意義があり、そこに悲劇が
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