あり、ほんとうの哀れがあるのではないか。八重子《やえこ》はここで黙って百パーセントの売女としてのポーラになりきることによってこの悲劇を完成すべきではないかという気がしたのであった。
不平ばかり言ったようで作者にはすまないが、どうもこんなふうに感じたことは事実でいたし方がない。
二番目「新世帯案内」では見物がよく笑った。笑わせておいてちょっとしんみりさせる趣向である。これが近ごろのこうした喜劇の一つの定型として重宝がられるらしい。しかしたまには笑いっ放しに笑わせてしまうのもあってはどうかと思われた。食事時間前の前菜にはなおさらである。
三番目「仇討輪廻《あだうちりんね》」では、多血質、胆汁質《たんじゅうしつ》、神経質とでも言うか、とにかく性格のちがう三人兄弟の対仇討観らしいものが見られる。これなどももうひと息どうにかすると相当おもしろく見られそうな気がしたが、現在のままではどうにもただあわただしく筋書を読んでいるような気がするだけであまりにあっけないような気がしたのは残念であった。どうと言って話にはできないが見るとたまらなくおもしろいという芝居もあるが、この芝居はそれとはちがった種類に属するもののようである。
最後の「女一代」では八重子が娘になり三十女になり四十女になって見せる。そうして実によく見物を泣かせるのである。そういう目的で作られたこの四幕物は、そういうものとしての目的を九分通りまでは達していると思われた。とにかく「嘆きの天使」を見ているときのようにあぶなっかしい感じはちっともなくて楽に見られる。それだけに何か物足りない。
この芝居を見てから数日後に友だちといっしょに飯を食いながらこの歌舞伎座《かぶきざ》見物の話をして、どうもどの芝居もみんな、もうひと息というところまで行っていながら肝心の最後のひと息が足りないような気がするという不平をもらしたら、T君は、畢竟《ひっきょう》いい脚本がないからだろうと言った。実際ほんとうにいい脚本なら芸術批評家を満足させると同時にまた大衆にも受けないはずはないであろうと思われる。そう言えば日本の映画でもやはりたいていもうひと息というところでぴったり止まっているように思われる。みんな仏作って魂が入れてないように見える。
そう言えばまた、日本の工業などでもやはり九十九パーセントまでは外国の最高水準に近づいていて、あとの一
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