る。
[#地から3字上げ](昭和十年四月、中央公論)
十六 歌舞伎座見物
二月の歌舞伎座《かぶきざ》を家族連れで見物した。三日前に座席をとったのであるが、二階の二等席はもうだいたい売り切れていて、右のほうのいちばんはしっこにやっと三人分だけ空席が残っていた。当日となって行って見ると、そのわれわれの座席の前に補助椅子《ほじょいす》の観客がいっぱい並んで、その中には平気で帽子をかぶって見物している四十格好の無分別男がいたりしたので、自分の席からは舞台の右半がたいてい見えず、肝心の水谷八重子《みずたにやえこ》の月の顔《かん》ばせもしばしばその前方の心なき帽子の雲に掩蔽《えんぺい》されるのであった。劇場建築の設計者が補助椅子というものの存在を忘れていたらしい。
一番目「嘆きの天使」はかつてスタンバーク監督ディートリヒ主演の映画を見ていたので、それとこれとを比較して見るという興味があった。さて「高等中学」の教室に現われた教授ウンラートはと見ると、遠方から見たいったいの風貌《ふうぼう》がエミール・ヤニングスの扮《ふん》した映画のウンラートにずいぶんよく似ているので、よくもまねたものだと多少感心した。しかし、同時に登場したドイツ学生の動作が自分の目にはどうしてこうもスチューピッドにできるかと思うほどスチューピッドに見えた。動物学の書物にナマケモノという動物があるが、あれがおおぜいのたうち回っているのだというような不思議な印象を受けただけであった。毎日こういう生徒を相手にしているのでは、ウンラートでなくても、どこか他に転向の新天地が求めたくなるであろうという気がするのであった。
映画では、はじめにウンラートの下宿における慰めなき荒涼無味の生活の描写があり、おまけにかわいがって飼っていた小鳥の死によって、この人の唯一の情緒生活のきずなの無残に断たれるという場面が一種の伏線となっているので、それでこそ後にポーラの楽屋のかもし出す雰囲気《ふんいき》の魅力が生きて働いてくるように思われるが、この芝居には、そういったようなデリケートな細工などは一切抜きにして全く荒削りの嘆きの天使ができあがっているようである。同じようなわけで、後に教授が道化役になって雄鶏《おんどり》の鳴き声をするのでも、映画のほうではちゃんとしたそれだけの因縁が明らかにされている。それは、ポーラとの結婚を
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