今日までほとんど四十年の間ついぞ再びこの蒲を見た記憶がなかったように思うのである。
この蒲の穂を二三十本ぐらい一束ねにしたのをそっくりそのままにA君が買おうとして価を聞くと、売り手のおかみさんが少し困ったような顔をした。「みなさん、たいてい二本ずつお買いになりますが」という。すると、他の客を相手にしていた亭主《ていしゅ》が聞きつけて「いけませんいけません」という。つまり、二本ずつは売るが一わは売らないというのである。伝統は尊重しなければならない。哲学者のA君は、とうとう十銭を投じて二本だけで満足するほかはなかった。
少し歩いてからしなびた紅《べに》の花殻《はながら》をやはり二三本|藁包《わらづと》にしたのを買った。また少し歩くと、数株の菱《ひし》を舗道に並べて売っている若い男がいた。A君はそれも一株買った。売り手の男が、なんだかひどくなつかしそうな顔をして、A君の郷里はどこかと聞いた。
この文化的日本の銀座の舗道の上に、びしょびしょにぬれて投げ出された数株の菱を見て、若い日の故郷の田舎《いなか》の水辺の夢を思い出す人は、自分らばかりではないと見える。
神代からなる蒲の穂や菱の浮
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