しかった。婢僕《ひぼく》などを叱ったことはほとんどなかったそうである。親思いで、子煩悩で、友をなつかしがった。
若い時分キリスト教会に出入りして道を求めたが得る所がなかったと云っていた。禅に志して坐禅をやったことがあったが、そこにも求めるものは得られなかった。晩年には真宗の教義にかなり心を引かれていたそうである。
学生時代には柔道もやり、またボートの選手で、それが舵手《だしゅ》であったということに意義があるように思われる。弓術も好きであって、これは晩年にも養生のための唯一の運動として続けていたようである。昔は将棋を試みた事もあり、また筆者などと一緒に昔の本郷座で川上、高田一座の芝居を見たこともありはしたが、中年以後から、あらゆる娯楽道楽を放棄して専心ただ学問にのみ没頭した。人には無闇に本を読んでも駄目だと云ってはいたが、実によく読書し、また人の論文でもよく目を通した。読み方も徹底的で、腑《ふ》に落ちないところはどこまでも追究しないと気がすまないという風であった。朝は寝坊であったが夜は時には夜半過ぐるまで書斎で仕事をしていたそうである。たまにはラジオで長唄や落語など聴く事もあった。西
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