ひん》であるか、それはわからない。玩弄品としては、年々目先が変わって、それで早くこわれてしまうほうがいいに違いない。
ただ困るのは、資本家でもなく、民衆でもなく、流行にかまわぬ趣味上のリベラリストだけであろう。しかし、机の引き出しを引っぱればあくものと思っているのが錯覚であるように、自分のほしいものが市場にあるはずだと思うのはやはりはなはだしい錯覚であるに相違ない。
三 捜すものは無い
捜さない時には、邪魔なほどに目の前にころがっているものが、いざ入用となって捜すときはなかなか見つからない。こういう気のする人は少なくないであろう。
そういう特別な場合の記憶だけが残存蓄積するせいもあろう。捜してすぐにあった場合は忘れるからである。
しかし、また、実際、特別緊急な捜しものをする場合には、心にこだわりがあって、自由な観察と認識の能力がいくぶん減退しているためもたしかにいくぶんかはあるらしい。
これとはまた少し趣のちがった「捜すものは無い」場合がある。
大きな書店の陳列棚《ちんれつだな》をひやかしていると、実にたくさんの本がある。俳句の本、山登りの本、唯物論的弁証法の
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