大きなバケツか何かで、どんどん日本海へくみ込むかと思わせるようになっているのである。そのほうがなるほどたしかにおもしろいには相違ないのである。一種の芸術としては実に感嘆すべきものであるが、犠牲になる学者の難儀もまた少々ではないのである。
 この術は決して新しいものではなくて、古い古い昔から、時には偉大なる王者や聖賢により、時にはさらにより多く奸臣《かんしん》の扇動者によって利用されて来たものである。前者の場合には世道人心を善導し、後者の場合には惨禍と擾乱《じょうらん》を巻き起こした例がはなはだ多いようである。いずれもとにかく人間の錯覚を利用するものである。
 もしも人間の「目」が少しも錯覚のないものであったら、ヒトラーもレーニンもただの人間であり、A一A事件もB一B事件も起こらず、三原山《みはらやま》もにぎわわず、婦人雑誌は特種を失い、学問の自由などという言葉も雲消霧散するのではないかという気がする。しかしそうなってははなはだ困る人ができてくるかもしれない。「錯覚」を食って生活している人がどのくらいあるかちょっと見当がつかないのである。また錯覚からよびさまされて喜ぶ人はほとんどまれである。尊崇している偉人や大家がたちまちにして凡人以下になったりするのではだれでも不愉快である。大概の錯覚は永久にだいじにそっとしておくほうがいいかもしれない。ただ事がらが自然科学の事実に関する限り、それを新聞社会欄の記事として錯覚的興味をそそることだけは遠慮なくやめたほうがいいであろうと思う。何人《なんびと》をも益することなくして、ただ日本の新聞というものの価値をおとすだけだからである。

     五 紙獅子

 銀座《ぎんざ》や新宿《しんじゅく》の夜店で、薄紙をはり合わせて作った角張ったお獅子《しし》を、卓上のセルロイド製スクリーンの前に置き、少しはなれた所から団扇《うちわ》で風を送って乱舞させる、という、そういう玩具《おもちゃ》を売っているのである。これは物理的にもなかなかおもしろいものである。ヨーヨーも物理的|玩具《がんぐ》であるが、あれはだいたいは簡単な剛体力学の原理ですべてが解釈される。しかしこの獅子のほうは複雑な渦流《かりゅう》が複雑な面に及ぼす力の問題を包んでいる。飛行機と突風との関係に似ていっそう複雑な場合であるから、世界じゅうの航空力学の大家でも手こずらせるだけの難題
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