、十人が九人まで「本」を「木」と読んでその本を買って来るであろう。そうしてその九人のうち四人か五人まではおしまいまで、その間違いに気づかずにしまうかもしれない。書いてある事に間違いがなければ、苦情の言いようはない。
 こういう間違いの心理のもう少し複雑なものを巧みに利用したと思われるのが新聞記事の中で時々見つかる。
 たとえば、ある学者が一株の椿《つばき》の花の日々に落ちる数を記録して、その数の日々の変化異同の統計的型式を調べ、それが群起地震の日々あるいは月々の頻度《ひんど》の変化異同の統計的型式と抽象的形式的に類型的であるという論文を発表したとする。そのような、ほんのちょっとした論文の内容がどうかすると新聞ではたいした「世界的」な研究になったり、ラジオでまで放送されて、当の学者は陰で冷や汗を流すのである。この新聞記事を読んだ人は相当な人でも、あたかも「椿の花の落ち方を見て地震の予知ができる」と書いてあるかのような錯覚を起こす。そうして学者側の読者は「とんでもなく吹いたものだ」と言って笑うかおこるかである。ところでその記事をよくよく読んでみるとちっとも、そんなうそは書いてないのである。ともかくもその論文の要点はそんなにひどく歪曲《わいきょく》されずに書いてある。それなのに、活字の大小の使い分けや、文章の巧妙なる陰影の魔力によって読者読後の感じは、どうにも、書いてある事実とはちがったものになるのである。実に驚くべき芸術である。こういうのがいわゆるジャーナリズムの真髄とでもいうのであろう。
 ついこのあいだもある学者がアメリカの学会へ行って「黄海《こうかい》の水を日本海へ注入して電力を起こす」という設計を提出して世界の学者を驚かせたという記事が出た。数日後に電車でひょっくりその学者に会って「君はアメリカに行っているはずじゃないですか」と聞いたら、そうではなくて、ただ論文を送っただけで、それをだれかが代読したのだそうである。題目は朝鮮《ちょうせん》の河川の流域変更に関するものだそうである。なるほど、新聞記事のどこにも、当人自身がその論文をよんだとはっきり書いてはなかったかもしれない。河川の流域を変ずれば、なるほど黄海に落ちるはずの水を日本海に入れる事も可能である。しかし、新聞記事の多数の読者には、どうしても、当人が登壇して滔々《とうとう》と論じたかのごとく、また黄河の水を
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