些細《ささい》な知識を求めるのでも容易なことではない。いやむしろ些細なことだからむつかしいかもしれない。
 学問のほうでも当世流行の問題に関する知識を求めようとする場合は参考書でも論文でも有り過ぎて困る。しかしそういう本や論文を読んだだけで、自分の疑問のすべてを解かれるためしはほとんどない。くすぐったいところになると、どの本を見てもやっぱり、くすぐったい。わかりきったことは、どの本を見ても明瞭《めいりょう》である。
 実験的研究に関する書物や論文を読んでも記載を読んだだけで、そのとおりやってもできないことはよくある。肝心の要訣《ようけつ》がぼかしてある場合が多いのは著者の故意か不親切かひとり合点かわからない。芸術家も同様に科学者も自分のしていることの妙所を認識できないためかもしれない。
 結局自分に入用なものは、品物でも知識でも、自分で骨折って掘り出すよりほかに道はない。本屋にあまりたくさんいろいろな本があるので、ついついだまされて本さえ見れば学者になれるというような錯覚にとらわれるのである。

     四 錯覚利用術

 これも目のたよりにならぬ話である。
 急に暑くなった日に電車に乗って行くうちに頭がぼうっとして、今どこを通っているかという自覚もなくぼんやり窓外をながめていると、とあるビルディングの高い壁面に、たぶん夜の照明のためと思われる大きな片かなのサインが「ジンジンホー」と読まれた。どういうわけか、その瞬間に、これは何か新しい清涼飲料の広告であろうという気がした。しかしその次の瞬間に電車は進んで、私は丸《まる》の内《うち》「時事新報」社の前を通っている私を発見したのであった。
 宅《うち》に近い盛り場にあるある店の看板は、人がよく「ボンラクサ」と読んでなんのことだろうと思うそうである。丸《まる》の内《うち》の「グンデルビ上海」の類である。東海道を居眠りして来た乗客が品川《しながわ》で目をさまして「ははあ、はがなしという駅が新設になったのかなあ」と言ったのも同様である。
 反対に、間違ったのを正しく読むのは校正の場合の大敵である。これを利用して似寄った名前の偽似商品を売るのもある。 
 たとえばゴルフの大家|梅木鶴吉《うめきつるきち》という人があるとする。そうして書店の陳列棚《ちんれつだな》に「ゴルフの要訣《ようけつ》、梅本鶴吉著」という本があったとすると
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