歳時記新註
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)説文《せつもん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|分《ぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](明治四十一年九月十二日『東京朝日新聞』)
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一
稲妻
晴れた夜、地平線上の空が光るのをいう。ドイツではこれを Wetterleuchten という。虚子の句に「一角に稲妻光る星月夜」とある。『説文《せつもん》』に曰く電《いなずま》は陰陽の激曜するなりとはちと曖昧《あいまい》であるが、要するに陰陽の空中電気が相合する時に発する光である。遠方の雷に伴う電光が空に映るのだが、雷鳴の音は距離が遠いのと空気の温度分布の工合で聞えぬのである。稲妻のぴかりとする時間は一秒の百万分一という短時間で、これに照らして見れば砲丸でも止まって見える。あまり時間が短いから左程強く目には感ぜぬが、その実、月の光などに比べては比較にならぬほど強い光である。時としては天の真上で稲光がしてやはり音の聞えぬ事がある、これはブラシ放電と名づける現象で、この時の光の色を分析してみると普通の電光とちがう事が分る。稲妻が光る度に稲が千石ずつ実るという云い伝えがあるが、どういう処から割り出したものであろう。近頃海外では農芸に電気を応用する事がようやく盛んになろうとしているから、稲妻の伝説と何か故事《こじ》つけが出来そうである。[#地から1字上げ](明治四十一年九月十二日『東京朝日新聞』)
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二
一葉《ひとは》
『淮南子《えなんじ》』には一葉落而知天下秋とあるが、植物学者に聞いてみると、木の葉が夏過ぎて落ち散るのは葉柄《ようへい》の根元の処にコルク質の薄い層が出来てそこだけ脆くなるから少しの風にでも誘われて天下の秋を示すものだそうだ。またある人の話によると、落葉樹の葉の中で遅く発育したのがまだ十分成熟しないうちに早い霜に痛んでしまうと、それきり発育が止まって、コルク質の出来る間がなく、梢に枯れたまま淋しい趣を見せるという事である。[#地から1字上げ](明治四十一年九月十三日『東京朝日新聞』)
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三
露
夜地上の草木土石が冷えて空気よりも冷たくなると、空気中の湿気が持ち切れなくなって露と結ぶ。地面は昼間温かい太陽に向って九千三百万マイルの彼方から来る光熱を浴びているが、夜になると冷たい死灰《しかい》のような宇宙の果に向き変ってしまう。すると昼間せっかく太陽から貰った温熱の大部分は人の知らぬ間に音もなく地面から抜け出して虚空へ逃げて行く。一秒時間に十八万六千マイルという驚くべき速度で逃げ出すと、もう未来永劫再び我が地球へは帰って来ぬ。良く晴れた夜には地面は赤裸で天体の寒さに曝されるようなものだから余計によく冷える。こんな晩には露が多い。しかし雲があれば丁度地面に着物を着せたようなわけで熱の放散が少ない、それだから露が少ない。また風があると地面の冷えようとするのを始終空気が撫でて行くから空気よりも著しく冷える間がない。それだから風のない雲のないそして湿気の多い晩に露が多い訳である。また物によって熱の逃げやすいものと逃げにくいものとある。草木の葉や土、石、藁のようなものは冷えやすいから露も多くつくが、光った金属例えば金盥《かなだらい》などは冷えにくいから露も付きにくい。熱帯地方では露の夥しく降る処がある。アフリカのコンゴー河口に近い海岸で一夜に降る露の量は地面を一|分《ぶ》ほどの深さに蔽うに足るという。[#地から1字上げ](明治四十一年九月十七日『東京朝日新聞』)
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四
鳩吹《はとふく》
古書には「鳩をとるとて手を合せて鳩の声のようにふきならすなり」とある。丁度フラスコの口に斜めに呼気《いき》を吹き付ける時に出る音と同じ訳で、両掌の間の空洞内の空気が振動して音を出すのである。この種類のものではその音の調子は空洞が狭くて口の穴の広いほど高くなる。唸《うな》り独楽《ごま》の音なども同じような例である。また栗の実に小さい穴を穿《うが》って中実を掘出し穴から長い糸を出しその糸の端をもって栗の殼を烈しく振り廻すと音を出すがあれも同理である。この種類のものは大抵ウ行に近い音を出す。人間の声でもウ行に音を出すには口を狭く突き出さねばならぬ。「吹く」という言葉も頬を膨《ふく》らし口をすぼめた時に出る声から起ったものであろう。[#地から1字上げ](明治四十一年九月二十五日『東京朝日新聞』)
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五
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