まで北半球の上に照っていた太陽がまさに南半球へ越えんとして丁度赤道の真上に来る日である。この日我が皇室では皇霊祭を行わせられる。仏教では彼岸の中日|時正《じしよう》の日で、一切の諸仏三世の諸尊および無数万億菩薩説法して衆生《しゆじよう》に楽しみを与うというので春分の時と同様|阿弥陀詣《あみだもうで》などをする。昔エジプトの天文学者は地上に環を立てて北極星に面せしめて置き、環の影が丁度一直線になる日を見て春分秋分を定め、これを基として暦を定めたという事で、その時の環が今日でもアレキサンドリアの博物館に保存してある。この日は昼夜長短相同じでこれからだんだん夜長になる。ずっと昔十二宮を定めた頃には秋分の日地球から太陽を望むとほぼ天秤星座《てんびんせいざ》に当ったので秋分をもって太陽天秤宮に入ると云っていたが、今から二千年前ギリシアのヒッパーカスは昼夜平分の日に太陽が天球の上に見える位置すなわち秋分点は少しずつ西の方へ変って行くという事を発見した。今日では秋分の太陽は処女宮の西のはずれに近い処まで動いて来た、従ってもとは同名の星座に配してあった十二宮は同名の星座と合わなくなって来たのである。秋分点あるいは春分点が天を一廻りして旧位に帰るまでには二万五、六千年の星霜を経ねばならぬ。今から一万二、三千年の子孫の世には北極はとんでもない天《あま》の河《がわ》のはずれを向いて、七夕の星が春見えるような事になる。こんな変化の起る訳は地球の自転の軸が独楽《こま》の軸と同じように徐々に味噌摺り運動をやるためである。[#地から1字上げ](明治四十一年九月二十六日『東京朝日新聞』)
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         六

      霧

 霧の出来方には色々ある。夜地面に近い空気がだんだんに冷えて来るために水蒸気が細かい滴《しずく》になって空中に浮游すればすなわち霧である。また湿気を帯びた温かい風が森や山腹の冷たい処に触れる場合や黒潮と親潮が出会うて温かい空気と冷たい空気が混ずる場合などにも起る。いずれにしても空中の水蒸気が凝《こ》って水滴となったもので実質においては雲と少しも異なっておらぬ。この滴が大きくなれば雨である。霧の滴の大きさは色々あるが、直径おおよそ一|分《ぶ》の百分一くらいのもので一滴ごとに凝結の中心となるべき核をもっている。この核となるものは極微な塵埃やまた物理学者がイオンと称えて顕微鏡でも見えぬしかもそれぞれ電気を帯びた微分子である。滴があまり細かいから空気の摩擦に支えられて容易に地に落ちず空中に浮かんでいる。野山の霧は消えやすいに反して市街の霧が消散し難いのは水滴の核になる塵の差違から起るという事である。霧で有名なはロンドンで、石炭や煤の粉交じりだから特別な不快な色をしている。そしてこの霧は市の上に限られて少し市外へ出れば無くなる。つまり市中の工場や住家から立昇る煙が霧の核を多量に供給しているためであろう。この霧を散らせるために大砲などを発火して試験をしている。市街の煤煙と同様に火山の煙も霧の発生を助けるものである。もう一つ霧で有名なのはニューファウンドランド島の近海で、ここは暖流と寒流の出会うために春から夏へかけては霧が深くて航海が危険である。三十七、八年の戦役に我が艦隊を悩ました濛気《もうき》もこの従兄弟《いとこ》のようなものであろう。また船乗の恐れる海坊主というのは霧の濃いかたまりだという説がある。とにかく霧は航海には厄介なもので、この障害を防ぐために霧笛、霧砲などというものが色々工夫された。[#地から1字上げ](明治四十一年九月三十日『東京朝日新聞』)
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         七

      霧の海

 野原に下りた霧の渺々《びようびよう》として海のごとく見ゆるをいう。ドイツにはこれに相当して Nebelmeer という字がある。仏国にも une mer de brouillard という語がある。

      霧の笆《まがき》

 霧は「切り」で、立ち切る意なりとの説がある。霧が物を障《さえぎ》る事は東西を通じて詩にも歌にもいろいろに云い現されているが、ある学者は霧が視界を障ぎる距離を詳しく調べてみた。その人の説によれば視力の及ぶ距離は霧の滴の直径に比例し、空気の一定容積中に含まるる水の量に反比例する。早くいえば霧が細かくて濃いほど遠くが見えぬのである。先ず普通山中などで出会う霧では百歩の外は見えぬものと思えばよい。英語に「霧の堤」という語があるが、これは障るという意味よりはむしろ海上などで霧が水平線に堤のように下りて陸と見違えるようなのをいうそうである。

      霧の香

 古書には「霧に匂ひのあるものなり云々」とあるが水滴ばかりでは香のあるはずはない。按ずるに、霧の凝結する核となる塵埃中にはい
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