ろいろ香や臭のあるものもあってこれが鼻感を刺戟する場合があるのでそう云ったものではあるまいか。実際松山の霧は松の香がして火山の霧は硫黄臭い。しかし「霧不断の香をたく」というのは香煙に見立てた眼の感じで鼻の感じではあるまい。[#地から1字上げ](明治四十一年十月一日『東京朝日新聞』)
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         八

      火桶、火鉢

 金属や陶器のは火を入れると周囲が熱くて触《さわ》れなくなるが、木製のだとそんな事はない。これはつまり金属陶器木材等の伝熱率の大小による。この三者のうちで木材が一番熱を伝え悪《にく》いからたとえ内側は焦げるほど熱くなっても外までは熱が届かぬのである。灰には石灰や土灰をも用いるが普通は藁灰《わらばい》である。藁を燃やした屑にはまだ大分に炭素が残って黒い色をしているが火鉢に入れておくとこの灰はだんだんに燃えて灰ばかり残る。灰の成分は主に種々の軽金属の酸化物で、なかんずく水に溶ける分は強いアルカリ性でいわゆる灰汁《あく》になる。灰の火鉢における効用は強い炭火を容器に密接させぬ事や炭をのせる台になる事の外に、炭が急に燃えるのを防ぎ、また熱の直接に空気へ放散するのを一部その中に貯えておく事である。炭の活け方には色々あるが、要するに炭を並べて真中に縦穴を作り穴の下の方に横穴を作れば全体が丁度ストーヴの煙突と同じ作用をして空気の流通を促し炭の燃えるのを助ける訳になる。炭火から出る炭酸|瓦斯《ガス》は熱した空気と一緒に天井へ上り障子の紙を透して外へ出るから日本の家屋ではそう恐ろしい害はない。また炭火の中で炭酸瓦斯が還元して一酸化炭素という恐ろしい毒瓦斯を作る事はあるが、これは大抵青い焔を上げて燃えてしまう。[#地から1字上げ](明治四十一年十一月十一日『東京朝日新聞』)
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         九

      炭

 木材を蒸焼《むしやき》にすると大抵の有機物は分解して一部は瓦斯になって逃げ出し、残ったのは純粋な炭素と灰分とが主なものである、これがすなわち木炭である。質の粗密によってあるいは燃え切りやすいのもあれば、燃えにくく消えやすいのもある。いずれも内部には無数な細かい穴があってその間に多量の瓦斯を吸収する性質がある、炭が臭気止めに使われるのはこのためである。近頃|檳榔子《びんろうじ》の炭を使って極寒まで冷した空気を吸わせ真空を作る事も発明された。また炭は溶液の中にある有機性の色素を吸収する性質がある、殊に獣炭あるいは骨炭がこれに適しているので砂糖の色を抜く事などに使われる。コークスは石炭を蒸焼にした炭だ、火力が強いが燃えつきにくい。近来電気の応用が盛んになるにつれて色々の事に炭を使う、白熱電灯の細い線も炭、アーク灯の中の光る棒も炭である、電話機の受話口の中の最も要用なものは炭でこしらえた丸薬のようなものである。

      白炭

 小枝に石灰を塗って焼いた炭である。黒い炭の中に交ぜて炭取を飾り炉の中を飾る。焼けると真白に光って美しい。瓦斯の焔を石灰に吹きつけて光らせるのはドラモンド灯であるが、白炭の強い光を喜んだ昔の人は偶然に一種のドラモンド灯を知っていた訳である。

      埋火《うずみび》

 炭火を灰で埋めれば酸素の供給が乏しくなるから燃えにくくなって永く保っている。しかし終《つい》には燃えてしまうのは空気が少しずつ中を流通している証拠である。[#地から1字上げ](明治四十一年十一月十二日『東京朝日新聞』)



底本:「寺田寅彦全集 第十二巻」岩波書店
   1997(平成9)年11月21日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「東京朝日新聞」
   1908(明治41)年9月12日〜11月12日
入力:Nana ohbe
校正:青野 弘美
2006年10月16日作成
2009年9月15日修正
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