へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘《こうもりがさ》を阿弥陀にさしてゆる/\あるく。山の上には人が沢山《たくさん》停車場から凌雲閣《りょううんかく》の方を眺めている。左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業《かるわざ》の太鼓|御賽銭《おさいせん》の音に汚《けが》すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡《きんぶちめがね》隣に坐った禿頭の行商と欠伸《あくび》の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正
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