根岸庵を訪う記
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)寓居《ぐうきょ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二台|幌《ほろ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+召」、第4水準2−87−40]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)じろ/\見物の顏を見ている
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 九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居《ぐうきょ》を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑《にぎ》おうている。西郷の銅像の後ろから黒門《くろもん》の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力《じんりき》と何か八釜《やかま》しく云って直《ね》ぶみをしていたが話が纏《まと》まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠《かぶ》ったのがここばかりでない途中でも沢山《たくさん》見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入《はい》った。鞦韆《ぶらんこ》に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。其処《そこ》へ美術学校の方から車が二台|幌《ほろ》をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場《かんこうば》の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方《そちら》へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切《ひとき》り済んだのであろうぴたりと止《や》めてしまって楽手は煙草などふかしてじろ/\見物の顔を見ている。後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々|大姉《だいし》と刻してある。真逆《まさか》に墓表《ぼひょう》とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処《そこ》で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼《せいりょう》な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と
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