十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸《かみねぎし》までの道を聞いたら丁寧《ていねい》に教えてくれた。不折《ふせつ》の油画《あぶらえ》にありそうな女だなど考えながら博物館の横手|大猷院尊前《だいゆういんそんぜん》と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻《しき》りに叩頭《ぬかず》いていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文《びたいちもん》も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。※[#「虫+召」、第4水準2−87−40]※[#「虫+僚のつくり」、第4水準2−87−82]《つくつくほうし》が八釜《やかま》しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭《うやうや》しく子規《しき》の家を尋ねたが知らぬとの答|故《ゆえ》少々意外に思うて顔を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序《ついで》にこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々|横柄顔《おうへいがお》が癪《しゃく》にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸《やしき》と云うに行当《ゆきあた》ったので漱石師《そうせきし》に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路《こうじ》で角に鶯横町《うぐいすよこちょう》と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十|間《けん》ばかり行くと左側に正岡|常規《つねのり》とかなり新しい門札がある。黒い冠木門《かぶきもん》の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予《かね》て紹介のあった筈《はず》である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上《まくらがみ》のしきを隔てて座を与えられた。初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間《ま》の中央に床をのべて糸のように痩せ細
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