高知がえり
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御萩《おはぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)商人|体《てい》の男二人
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](明治三十四年十一月)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ザブ/\
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明後日は自分の誕生日。久々で国にいるから祝の御萩《おはぎ》を食いに帰れとの事であった。今日は天気もよし、二、三日前のようにいやな風もない。船も丁度あると来たので帰る事と定める。朝飯の時勘定をこしらえるようにと竹さんに云い付ける。こんどはいつ御出《おい》でかと例の幡多訛《はたなま》りで問う。おれの事だからいつだかわからんと云ったような事を云うてザブ/\とすまし、机の上をザット片付けて革鞄《かばん》へ入れるものは入れ、これでよしとヴァイオリンを出して second position の処《ところ》を開けてヘ調の「アンダンテ」をやる。1st とちがって何処《どこ》かに艶があってよい。袷《あわせ》を綿入に着かえて重くるしいのに裾《すそ》が開きたがって仕方がない。縁側へ日が強くさして何だか逆上する。鼻の工合が変だが、昨日の写生で風でも引きやしなかったかしらん。東の間では御ばあさんの声で菊尾さんを呼んでいる。定勝を尋ねて来いといいつけている。着物の寸法も取らねばならんのに朝から何処へいったのかとブツブツ。間もなく菊尾は帰ったが、安田にも学校にも居ませんと云うので、御ばあさんまたブツブツ。そのうち定勝さんが帰った。着物の寸法を取らねばならぬに何処へ行っていたか。この忙しいのにどんなに世話を焼かすか知れぬと頭ごなし。帰って来たとて宅《うち》に片時居るでもなし。おまけに世話ばかり焼かして……。もうそう時々帰って来るには及ばぬ……とカンカン。誰れか余所《よそ》の伯母さんが来て寸を取っているらしい。勘定を持って来た。十五円で御釣りが三円なにがし。その中の銀一枚はこれで蕎麦《そば》をおごろうと御竹さんの帯の間へ。残りは巾着《きんちゃく》へ、チャラ/\と云うも冬の音なり。今日は少し御早くと昼飯が来て、これでまたしばらくと云うような事を云い合うて手早くすます。しばらくすると二階で「汽船が見えました」と御竹の声。奥からは「汽船が見えました。今日御帰りで御ざいますそうな」と御八重《おやえ》が来る。これはちと話の順序がちがっているようだ。料理人篠村宇三郎、かご入りの青海苔《あおのり》を持って来て、「これは今年始めて取れましたので差上げます。御尊父様へよろしく」と改まったる御挨拶で。そのうち汽船の碇《いかり》を下ろす音が聞えて汽笛一声。「サアそろそろ出掛けようか。」「御荷物はこれだけで。」「イヤコレハ私が持って行こう。サヨーナラ。」「また御早うに……。」定勝さんも今日の船で帰校するとて、背嚢《はいのう》へ毛布を付けている。今日は船がよほどいつもよりは西へついている。何処の学校だか行軍に来たらしい。生徒が浜辺に大勢居る。女生の海老茶袴《えびちゃばかま》が目立って見える。船にのるのだか見送りだか二十前後の蝶々髷《ちょうちょうまげ》が大勢居る。端艇へ飛びのってしゃがんで唾《つば》をすると波の上で開く。浜を見るとまぶしい。甲板へ上がってボーイに上等はあいているかと問うとあいているとの事、荷物と帽を投げ込んで浜を見ると、今端艇にのり移ったマントの一行五、六人、さきの蝶々髷の連中とサヨーナラといっているのが聞える。蚕種《さんしゅ》検査の御役人が帰るのだなと合点がいった。宿の定さんも、二階で泊った女づれのハイカラも来る。頬の恐ろしく膨《ふく》れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫《とも》の甲板の蓆《むしろ》へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲《すもう》の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。その隣には五、六人、若い娘も二人ほど交じっている。機関長室には顔の赤い人の好さそうなのが航海日誌と云いそうなものへ何か書いている。ここへ色の青い恐ろしく痩せた束髪の三十くらいの女をつれた例の生白いハイカラが来て機関長と挨拶をしていたが、女はとうとうこの室の寝台を占領した。何者だろう。黒紋付をちらと見たら蔦《つた》の紋であった。宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生達は舳《へさき》の方の炊事場の横へ陣どって大将らしき鬚《ひげ》の白いのが法帖様《ほうじょうよう》のものを広げて一行と話している。やっと出帆したのが十二時半頃。甲板はどうも風が寒い。艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見ながら口笛を吹いているからそこ
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