へいって話しかける。第二中学の模様など聞いているうち船員が出帆旗を下ろしに来た。杣《そま》らしき男が艫へ大きな鋸《のこぎり》や何かを置いたので窮屈だ。山々の草枯れの色は実に美しいと東の山ばかり見ているうちはや神島《こうじま》まで来て、久礼《くれ》はと見たけれども何処とも見当がつかぬ。釣船が追々に沖から帆を上げて帰って来る。甲板を下駄で蹴りながら、昨日稽古した「エコー」と云うのを歌う。室へ入ろうとするといつの間にか商人|体《てい》の男二人その連れらしき娘一人室へいっぱいになって『風俗画報』か何か見ているので、また甲板をあちこち。機関長室からハイカラ先生の鼠色のズボンが片足出て、鏡に女の顔が映って見える。煙突の脇へ子供を負った婆さんとおばさんとが欄干にもたれて立って、伝馬《てんま》の船底から山を見ている顔が淋しそうな。右舷《うげん》へ出ると西日が照りつけて、蝶々に結《ゆ》った料理屋者らしいのが一人欄へもたれて沖をぼんやり見ている。会食室の戸が開いているからちらと見たら、三十くらいの意気な女と酒をのんでいる男があったが、顔はよく見えなかった。また左舷へ帰って室へはいって革鞄から『桂花集』を引っぱり出して欄へもたれて高く音読すると、艫で誰れか浮かれ節をやり出したので皆が其方を見る。ボーイにマッチを貰って煙草を吸う。吸殻を落すと船腹に引付《ひっつ》いて落ちてすぐ見えなくなる。浦戸《うらど》の燈台が小さく見える。西を見ると神島が夕日を背にして真黒に浮上がって見える。横波の入日をこして北を見ると遠い山の頂に白いものが見える。ボーイが御茶を上げましょと云うて来たから室へはいると、前の商人はあわてて席を譲って「ドーゾコチラヘ」と言う。茶をのんで粗末なビスケットを二つ三つかじる。娘は毛布をかけてねたまま手を出してビスケットを取って食っている。スグまた室を出る。鴨《かも》が沢山ついていて、釣船もボツボツ見える。だいぶ浦戸に近よった。煙突の下で立ちながらめしを食っている男がある。例のボーイが cabin からいかがわしい写真を出して来て見せびらかしながら会食室へはいったと思うと、盛んに笑う声が洩れて来た。浪がないから竜王の下の岩に躍《おど》る白浪の壮観も見えぬ。釣船はそろそろ帆を張って帰り支度をしている。沖の礁を廻る時から右舷へ出て種崎《たねざき》の浜を見る。夏とはちがって人影も見えぬ和楽園《わらくえん》の前に釣を垂れている中折帽の男がある。雑喉場《ざこば》の前に日本式の小さい帆前が一艘ついて、汀《みぎわ》には四、五人ほど貝でも拾っている様子。伝馬に乗って櫂《かい》を動かしている女の腕に西日がさして白く見える。どうやら夏のようにも思われる。貴船社《きぶねしゃ》の前を通った時は胸が痛かった。玉島のあたりははらかた釣りが夥《おびただ》しいが、女子供が大半を占めている。種崎の渡しの方には、茶船の旗が二つ見えて、池川の雨戸は空しく締められてこれも悲しい。孕《はらみ》の山には紅葉が見えて美しい。碇を下ろして皆端艇へ移る。例のハイカラは浜行の茶船へのる。自分は蚕種検査の先生方の借り切り船へ御厄介になった。須崎のある人から稲荷新地《いなりしんち》の醜業婦へ手紙を託されたとか云って、それを出して見せびらかしている。得月楼《とくげつろう》の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通る。これらが煩悩の犬だろう。松《まつ》が端《はな》から車を雇う。下町《しもまち》は昨日の祭礼の名残で賑やかな追手筋《おうてすじ》を小さい花台をかいた子供連がねって行く。西洋の婦人が向うから来てこれとすれちがった。牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎《えのき》の霜枯れの色が実に美しい。高阪橋《たかさかばし》を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。[#地から1字上げ](明治三十四年十一月)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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