高原
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)沓掛《くつかけ》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)野天|吹曝《ふきさら》しの
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十年九月『家庭』)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ワッショイ/\/\
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七月十七日朝上野発の「高原列車」で沓掛《くつかけ》に行った。今年で三年目である。駅へ子供達が迎いに来ていた。プラットフォームに下り立ったときに何となく去年とはあたりの勝手が違うような気がしたがどこがどうちがったかということがすぐとは気が付かなかった。子供に注意されて気がついて見るとなるほどプラットフォームに屋根が新築されて去年から見るとよほど停車場らしくなっている。全く予期しないものは眼に写っても心には写らないのである。
一昨年初めて来たとき、軽井沢駅のあの何となく物々しい気分に引きかえてこの沓掛駅の野天|吹曝《ふきさら》しのプラットフォームの謙虚で安易な気持がひどく嬉しかったことを思い出した。
H温泉|池畔《ちはん》の例年の家に落着いた。去年この家にいた家鴨《あひる》十数羽が今年はたった雄一羽と雌三羽とだけに減っている。二、三日前までは現在の外にもう二、三羽居たのだがある日おとずれて来たある団体客の接待に連れ去られたそうである。生き残った家鴨どもはわれわれには実によく馴《な》ついて、ベランダの階段の一番上まで上がって来てパン屑をねだる。そうして人を頼る気持は犬や猫と同じであるような気がするが、しかしどうしても体躯《からだ》には触《さわ》らせまいとして手を出すと逃げる。それだけは「教育」で抜け切れない「野性」の名残《なごり》であろう。尤も、よく馴れたわれわれの手を遁《に》げる遁げ方と時々屋前を通る職人や旅客などを逃避する逃げ方とではまるでにげ方が違う。前の場合だとちょっと手の届かぬ処へにげるだけだのに、後の場合だと狼狽の表情を明示していきなり池の中へころがり込むようである。とにかくこんなになつかれては可愛くてとても喰う気にはなれない。
今年は研究所で買ったばかりの双眼顕微鏡を提《さ》げて来て少しばかり植物や昆虫の世界へ這入り込んで見物することにした。着くとすぐ手近なベランダの檜葉《ひば》を摘んで二十倍で覗いてみた。まるで翡翠《ひすい》か青玉で彫刻した連珠形の玉鉾《たまほこ》とでも云ったような実に美しい天工の妙に驚嘆した。たった二十倍の尺度の相違で何十年来毎日見馴れた世界がこんなにも変った別世界に見えるのである。ワンダーランドのアリスの冒険の一場面を想い出した。顕微鏡下の世界の驚異にはしかし御伽噺《おとぎばなし》作者などの思いも付かなかったものがあるらしい。
シモツケの繖形花《さんけいか》も肉眼で見たところでは、あの一つ一つの花冠はさっぱりつまらないものであるが、二十倍にして見るとこれも驚くべき立派な花である。桃色|珊瑚《さんご》ででも彫刻したようで、しかもそれよりももっと潤沢と生気のある多肉性の花弁、その中に王冠の形をした環状の台座のようなものがあり、周囲には純白で波形に屈曲した雄蕊《おしべ》が乱立している。およそ最も高貴な蘭科植物の花などよりも更に遥かに高貴な相貌風格を具備した花である。
スカンボの花などもさっぱり見所のないもののように思っていたが、顕微鏡で見るとこれも実に堂々たる傑作品である。植物図鑑によると雄花と雌花と別になっているそうであるが、自分の見た中にはどうも雄蕊雌蕊《おしべめしべ》を兼備しているらしいものも見えた。
カワラマツバの小さな四弁花は弁と弁との間から出た雄蕊がみんな下へ垂れ下がって花心から逃げ出しそうにしている。ウツボグサの紫花の四本の雄蕊は尖端が二《ふ》た叉《また》になっていて、その一方の叉には葯《やく》があるのに他の一方はそれがなくて尖《とが》ったままで反り曲っている。こうした造化の設計には浅墓《あさはか》なわれわれには想像もつかないような色々の意図があるかもしれないという気がする。
以上のような花に比べると例えばホタルブクロのような大きな花は却って二十倍くらいに廓大《かくだい》して見てもそれ程びっくりするような意外な発見はないようであった。しかしもっと色々見ていたらまた珍しい見物に出っくわさないとも限らないであろう。
ある花はこんなに細小でまたある花は途方もなく大きい。これも不思議である。細かい花は通例沢山に簇出《そうしゅつ》しているような気がする。これも不思議である。そうして多くの草の全体重と花だけの総体重との比率にはおおよそ最高最低限度がありそうな気がしてこれも何かわれわれのまだ知らない科学
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