的な方則で規定されているのではないかという気がするのである。
 七月十九日には上田の町を見物に行った。折からこの地の祇園祭《ぎおんまつり》で樽神輿《たるみこし》を舁《かつ》いだ子供や大供の群が目抜きの通りを練っていた。万燈《まんどう》を持った子供の列の次に七夕竹《たなばただけ》のようなものを押し立てた女児の群がつづいて、その後からまた肩衣《かたぎぬ》を着た大人が続くという行列もあった。東京でワッショイ/\/\というところを、ここではワイショー/\と云うのも珍しかった。この方がのんびりして野趣がある。
 市役所の庭に市民が群集している。その包囲の真中から何かしら合唱の声が聞こえる。かつて聞いた事のない唱歌のような読経《どきょう》のような、ゆるやかな旋律《リズム》が聞こえているが何をしているか外からは見えない。一段高い台の上で映画撮影をやっているのが見える。そこを通り抜けて停車場の方へと裏町を歩いていると家々からラジオが聞こえ、それが今聞いた市役所の庭の合唱そのままである。上田から長野へ電線で送られた唱歌が長野局から電波で放送され、それがエーテルを伝わってもとの上田の発源地へ帰って来ているのである。何でもない当り前の事であるが、ちょっと変な気のするものである。
 あとで新聞を見たら、この地で七十年ぶりという珍しい獅子舞が演ぜられていたのである。それをちっとも知らないで、ただその見物の群集の背中だけ見物して帰った訳である。生え抜きの上田市民で丁度この日他行のためにこの祇園祭の珍しい行事に逢わなかった人もあるであろうから一生におそらくただ一度この町へ来合わせて丁度偶然この七十年目の行事に出くわした自分等はよほどな幸運に恵まれたものだと思っても別に不都合はない訳である。
 上田の町を歩いている頃は高原の太陽が町のアスファルトに照り付けて、その余炎で町中はまるで蒸されるように暑く、いかにも夏祭りに相応《ふさわ》しい天気であった。帰りの汽車が追分《おいわけ》辺まで来ると急に濃霧が立籠めて来て、沓掛で汽車を下りるとふるえるほど寒かった。信州人には辛抱強くて神経の強い人が多いような気がする。もしかすると、この強い日照と濃い濃霧との交錯によって神経が鍛練されるせいもいくらかはあるのではないかという気がした。信州と云っても国が広いから一概には云われないであろうが、ただちょっとそんな気がしたのであった。

 宿の本館に基督《キリスト》教信者の団体が百人ほど泊っていた。朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのように妙に聖者らしい気取りが見えなくて感じのいい人達のようである。
 この団体がここを引上げるという前夜のお別れの集りで色々の余興の催しがあったらしい。大広間からは時々賑やかな朗らかな笑声が聞こえていた。数分間ごとに爆笑と拍手の嵐が起こる。その笑声が大抵三声ずつ約二、三秒の週期で繰返されて、それでぱったり静まるのである。こうした場合に人間の笑うのにはただ一と声笑っただけではどうにも収まらないものらしく、それかと云って十声とつづけて笑うことは出来ないものらしい。

 毎日カッコウやホトトギスがよく啼く。これらの鳥の啼くのでも大概平均三声くらい啼いてから少時《しばらく》休むという場合が多いようである。偶然と云えば偶然かもしれないが、しかし何か生理的に必然な理由があるのかもしれない。

 七月二十一日にいったん帰京した。昆虫の世界は覗く間がなかった。八月にまた行ったとき、もう少し顕微鏡下の生命の驚異に親しみたいと思っている。[#地から1字上げ](昭和十年九月『家庭』)



底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
   1997(平成9)年3月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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