来るのら猫の数でも少なくはない。なぜだろう。宿の人に聞いてみると、いないことはない。現に近くの発電所にも一匹はたしかにいるという。宿では食膳を荒らす恐れがあるから飼わないそうである。宿で前に七面鳥を飼っていたが、無遠慮に客室へはいり込むのでよしたという。それにしても猫の少ないだけは確かである。ねずみが少ないためかもしれない。そうだとするとねずみの食うものが少ないせいかも知れない。つまり定住した人口が希薄なせいかもしれない。冬になればこのへんはほとんど無人境になるそうであるから。
 そう言えば、すずめもいっこうに見かけない。御代田《みよた》へんまで行くとたくさんいるそうである。このすずめの分布は五穀の分布でだいたいは説明ができそうである。人間は金のある所へ寄るが鳥獣の分布はやはり「すぐに取って食える食物」の分布できまるものらしい。
 星野に小さな水力発電所がある。六十五キロだそうである。これくらいのかわいいのだといわゆる機械的バーバリズムの面影はなくて、周囲の自然となれ合って落ち着いている。狭い発電所の構内には、おいらん草が真紅に美しく咲き乱れている。発電所から流れ出す水流の静かさを見て子供らが不審がる。水はそのありたけの勢力を機械に搾取されて、すっかりくたびれ果てて、よろよろと出て来るのである。しかし水は労働争議などという言葉は夢にも知らない。
 人間は自然を征服し自然を駆使していると思っている。しかし自然があばれだすと手がつけられないことを忘れがちである。全国至るところにある発電所の堰堤《えんてい》のどれかが、たとえば大地震のためにこわれたら、その時には人間の弱さがはっきりわかるであろう。気の狂った動物園の象ぐらいの事ではすまない。
 道ばたの白樺の樹皮を少しはがしてよく見ると、実に幾層にも幾層にも念入りにいろいろの層が重畳している。これにも何か深い「意味」があるであろうが、この薄層の一枚一枚にしるされた自然の暗号記録はわれわれには容易に読めない。まただれも読もうともしないようである。
 人間はなんと言ってもやはりいちばん人間に興味があるようである。軽井沢の町や新軽井沢の林間を歩いていて行き会う都人士は、みんななんとなく新軽井沢らしい顔と服装とをしている。若い女どうしは近よりながら、互いに用心深くお互いを偵察し合いながら行き違う。そうして何かしら小さな観察をし小さ
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング