間はだんだんにうぐいすに教育されて来たものと思われる。うぐいすの鳴くころになると、山野は緑におおわれ、いろいろの木の実、草の実がみのり、肌を刺す寒い風も吹かなくなるということを教えられたに相違ない。うぐいすの声がきらいな人などありようはない。
星野温泉の宿の池に毎朝|水鶏《くいな》が来て鳴く。こぶし大の石ころを一秒に三四ぐらいのテンポで続けざまにたたき合わせるような音である。それが、毎朝東の空がわずかに白みかけるころにはきまってたたきに来る。そっと起き出して窓からのぞいて見ても姿は見えない。ひとしきり鳴くと鳴きやみ、あたりがしんとする。しばらくすると今度は一町ぐらい下のほうの池で鳴いているらしい。この水鶏が鳴いてからしばらくするとほととぎすが鳴いて通る。それがいつも同じ方向から鳴いて来て、また別のきまった方向へ鳴いて行くようである。それが通り過ぎてからしばらくすると、今度は宿の浴室のほうでだれかガーガーゲーゲーと途方もない野蛮な声を出して咽喉や舌のつけ根の掃除をする浴客がある。水鶏やほととぎすの鳴き声がいかにも静寂であるのに引きかえて、この人間の咽喉をせんたくする音が、なぜこんなにも不快であるのか、これも不思議である。鳥にはだれも初めから遠慮とか作法とかを期待しない、というせいもあるであろう。また、鳥の生活に全然没交渉なわれわれは、鳥の声からしてわれわれの生活の中に無作法に侵入して来るような何物の連想をもしいられないせいもあるであろう。蝉の声には慣らされるが、ラジオの※[#「食+尭」、第4水準2−92−57]舌にはなかなか教育されるのに骨が折れる。
夕方歩いていたら、湯川の沢の蘆原の中で水鶏が鳴いていた。朝でなくても鳴くのである。ずっと離れた山すそにも、もう一羽別のが鳴いていた。沢のがだんだん近づいて行って、とうとう山すそのほうへ移って行くころには相手はもう鳴かなくなった。やがて水鶏の声はぱったり途絶えてしまって、十三夜ごろの月が雨を帯びた薄雲のすきまから、眠そうにこの静かな谷を照らしていた。水鶏の鳴くのはやはり伴侶を呼ぶのであろう。
このへんには猫がいない、と子供らが言う。なるほど、星野でも千が滝でも沓掛《くつかけ》でも軽井沢でもまだ一匹も猫の姿を見ない。それが東京の宅《うち》の付近だと、一町も歩くうちにきっと一匹ぐらいは見つかるような気がする。日々に訪れて
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