な発見をすることによってめいめいの小さなかわいいプライドを満足させているように思われる。
雲取池《くもとりいけ》のみぎわのベンチに、五十格好の婦人が腰かけて、ハンケチで半面をおおったまま、いつまでもじっとして池の面をながめていた。相当な服装をしているが、いかにもやせ衰えている上に、顔一面に何か皮膚病と見えてかびでもはえたような肌合をしている。このへんを歩いている人たちの大部分は、西洋人でも日本人でも、男でも女でも、みんなたった今そこで生命の泉を飲んできたような明るい活気のある顔をしている中で、この老婦人だけがあたかも黄泉《よみ》の国からの孤客のように見えるのであった。「どうかするんじゃないかしら。」そんな暗い予感の言葉が同時に一行の口から出た。草津入浴のついでにこのへんを見物に来たのだろうというものもあった。しかし、当人は存外のんきに歌でも詠《よ》んでいたのかも、それはわからない。顔の粉っぽいのは白粉《おしろい》のつけそこねであったかも、それはわからない。
軽井沢の駅へおりた下り列車の乗客が、もうおおかたみんな改札口を出てしまったころに、不思議な格好をした四十前後の女が一人とぼとぼと階段をおりて来た。駅員の一人がバスケットをさげてあとからついて来る。よれよれに寝くたれた、しかも不つりあいに派手な浴衣《ゆかた》を、だらしなく前上がりに着て、後ろへはほどけかかった帯の端をだらりとたらしている。頭髪もすずめの巣のように乱れているが、顔には年に似合わぬ厚化粧をしている。何かの病気で歩行が困難らしい。妙な足取りでよちよち歩いて来るそばを、駅員がその女の持ち物らしいバスケットをさげてすましてついて来た。改札口を出るとその駅員は、草津電鉄のほうを指さして何か教えているらしかった。女が行ってしまうとその駅員は、改札係と、居合わせた警官と三人で顔を見合わせて何か一言二言言ってにやにや笑っていた。
同じ汽車でおりた西洋人夫婦が、純粋な昔のシナの服装をしたシナ婦人に赤ん坊を抱かせて、しずしずと改札口を出た。子供のかかえ方が日本人とはよほどちがっている。それが実にさもさもだいじなものを捧持《ほうじ》しているようなかかえ方である。よそ目にもはらはらするようなそこらの日本の子守りと比べて、このシナ婦人のほうに信用のあるのはもっともである。
軽井沢から沓掛へ乗った一人の労働者が、ひどく泥
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