ヘしないかと思うので、そういう鎮静剤を一部の読者に紹介したいと思ったまでのことである。
 兼好法師の時代にはもちろん生理学などというものはなかったが、あの『徒然草』第十九段を見ると「青葉になりゆくまで、よろづにたゞ心をのみなやます」とか、また「若葉の梢涼しげに茂りゆく程こそ、世のあはれも、人の恋しさもまされと、人のおほせられしこそ、げにさるものなれ」などといっているところを見ると、この法師もその当時は H0[#「0」は下付き小文字] − A = K の仲間ではなかったかと想像されて可笑しい。それに引きかえて『枕草子』に現われて来る清少納言の方はひどく健康がよくてAが小さくH0[#「0」は下付き小文字][#「H0[#「0」は下付き小文字]」は縦中横]がいつもKに近いという型の婦人であったように見えるのである。
『徒然草』の「あやめふく頃」で思い出すのはベルリンに住んではじめての聖霊降臨祭《プフィングステン》の日に近所の家々の入口の軒に白樺の折枝を挿すのを見て、不思議なことだと思って二、三の人に聞いてみたが、どうした由来によるものか分らなかった。ただ何となく軒端に菖蒲を葺いた郷国の古俗を想い浮べて、何かしら東西両洋をつなぐ縁の糸のようなものを想像したのであったが、後にまたウィーンの歳の暮に寺の広場で門松《かどまつ》によく似た樅《もみ》の枝を売る歳の市の光景を見て、同じような空想を逞《たくま》しゅうしたこともあった。こんな習俗ももとは何かしら人間の本能的生活に密接な関係のある年中行事から起ったものであろうと思うが、形式だけが生残って内容の原始的人間生活の匂いは永久に消えてしまい忘れられてしまったのであろう。
「早苗《さなえ》とる頃」で想い出すのは子供の頃に見た郷里の氏神の神田の田植の光景である。このときの晴れの早乙女《さおとめ》には村中の娘達が揃いの紺の着物に赤帯、赤|襷《だすき》で出る。それを見物に行く町の若い衆達のうちには不思議な嗜被虐性変態趣味をもった仲間が交じっていたようである。というのは、昔からの国の習俗で、この日の神聖な早乙女に近よってからかったりする者は彼女達の包囲を受けて頭から着物から泥を塗られ浴びせられても決して苦情はいわれないことになっていたのである。
 そういう恐ろしい刑罰の危険を冒して彼女らを「テガイニイク」(からかいに行く)という冒険には相当な誘
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