聞えて来る。それを自分だけが陰気な穴の中で聞いているような気がする。何処か遊びに行ってみたい。行かれぬのでなおそう思う。田端《たばた》辺りでも好い。広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、当《あて》もなく歩いていたいと思う。いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や内職の飜訳などに追われて、こんな事を考えた事も少ないが、病んで寝てみると、急に戸外のうららかな光が恋しくて胸をくすぐられるようである。早くなおりたい。なおったらみんなを連れて一日くらい遊びに行こう。いつ治るだろう。無論治る事はきっと治ると思ってみたが、ふっと二、三年前肺炎で死んだ姪の事を思い出す。姪は死ぬる少し前まで、わたしが治ったら何処へ行くとか、何を買うとか、よくそんな事を云っていたので、死んでからはみんなでそのことを云ってよく泣いた。肺炎は容易ならぬ病気だと思うと、姪の美しく熱にほてった、いまわの面影がありあり見える。しかし自分は死にたくても死なれぬ。もしもの事があったら老い衰えた両親や妻子はどうなるのだと思うと満身の血潮は一時に頭に
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