年末賞与の三プロセント、但《ただ》し賞与なかりし者は金弐円也とあった。自分は試験の準備でだいぶ役所も休んだために、賞与は受けなかったが、廻状の但し書が妙に可笑《おか》しかったからつい出掛ける気になって出席した。少し酒を過ごしての帰り途で寒気がしたが、あの時はもう既に病に罹っていたのだ。帰って寝たら熱が出てそれきり起きられぬ。医者は流行性でたいした事はないと云っていたが、今日来た時は妙に丁寧に胸を叩いたり聞いたりして首をひねってとうとうあんなことを云って帰った。いよいよ肺炎だろうか。そう思うとなんだか呼吸が苦しいようである。熱はだんだん上がるらしい。天井を見ると非常に遠く見える。耳が絶えず鳴っている。傍に坐った妻の顔が小さく遠い処に居るようで、その顔色が妙に蒼く濁って見える。妻は氷袋を気にして時々さわってみるが、始終無言である。子供はまだよく寝ているか音もせぬ。何となく淋しい。人には遠く離れた広間の真中に、しんとして寝ているような心持である。表の通りでは砂利をかんで勢いよく駈ける人車《じんしゃ》の矢声《やごえ》も聞える。晴れきった空からは、かすかな、そして長閑《のどか》な世間のどよめきが
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