シアで剃るのは xurein でわが suri に通じる。髪を切る意味の cheirein は「切る」「刈る」に通じる。
 Skt. kshura は剃刀《かみそり》。krit は切るであるとすると不思議はない。
 おもしろいことは、土佐で自分の子供の時代に、紙鳶《たこ》の競揚をやる際に、敵の紙鳶糸を切る目的で、自分の糸の途中に木の枝へ剃刀の刃をつけたものを取り付ける。この刃物を「シューライ」と名づける。これは前記のサンスクリトの「クシューラ」とよく似ている。これはたしかに不思議である。
 床屋も不思議だがハタゴヤもなぜ旅館だかわからない。
 ギリシアの宿屋が pandocheion でいくらか似ているのはおもしろい。パドケヤとハタゴヤである。pan と dechomai, すなわちだれでも接待する意だそうである。衆生を済度する仏がホトケであるのは偶然の洒落《しゃれ》である。

 ラテンで「あるいはAあるいはB」という場合に alius A, alius B とか、alias A, alias B とか、また vel A, vel B という。alius と vel とは別物であるのに、どちらも日本の「アル」に似ているからおもしろい。英語の or でも少しは似ている。Skt. の「または」「あるいは」は athawa である。

 ロシアで「すなわち」というような意味で、znatchiti を使う。日本の snaati と似ている。
 また tak kak というのがいろいろの意味に使われるが whereas の意味では、「それはそうととにかく」の「兎角《とかく》」に通じなくない。兎《うさぎ》の角《つの》ではどうにも手に合わない。

 ドイツの noch(=nun auch) が日本語の naho に似ている。イタリアの eppure は日本の「ヤッパリ」と同意義である。

 因果関係はわからなくても似ているという事実はやはり事実である。
 ことばの事実を拾い集めるのが言葉の科学への第一歩である。玉と石とを区別する前には、石も一応採集して吟味しなければならない。石を恐れて手を出さなければ玉は永久に手に入らない。
[#地から2字上げ](昭和八年四月、鉄塔)

   三

 春(ハル)のラテン語が ver であるが、ポルトガル語の 〔vera:o〕 は夏である。ペルシアの春は 〔baha'r〕, 蒙古《もうこ》(カルカ)語では h'abor である。ドイツ語の 〔Fru:hling〕 は 〔fru:h〕 から来たとすればこれはfとrである。かなで書くとみんなハ行とラ行と結びついている点に興味がある。アイヌ語の春「パイカラ」はだいぶちがうが、しかしpをbに、kをhに代えるとおのずからペルシアの春に接近する。この置き換えは無理ではない。
「張る」「ふえる」「腫《は》るる」などもhまたはfにrの結合したものである。full, voll, πλ※[#アキュートアクセント付きε、188−上−6]ω※[#ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1−6−57] なども連想される。
 夏(ナツ)と熱(ネツ)とはいずれもnとtの結合である。現代のシナ音では、熱は jo の第四声である。「如」がジョでありニョであり、また「然」がゼンでありまたネンであると同じわけである。蒙古語《もうこご》の夏は 〔ju:n〕 である。朝鮮語《ちょうせんご》の「ナツ」は昼である。しかし朝鮮語で夏を意味する言葉は「ヨールム」で熱がヨールである。yをjに、語尾のrをtにすると(この置き換えもそれほど無理ではない)シナの現代音になる。ハンガリーの夏は 〔nya'r〕(ニヤール)。コクネー英語で hot は ot であるがこれは日本語の「アツ」に似ている。フランスの夏が 〔e'te'〕 であるのもおもしろい。アイヌの夏 sak は以上とは仲間はずれであるが、しかしアラビアの saif に少し似ているのがおもしろい。語尾のkは kh からhになる可能性があり、日本ではhがfになるのである。
 秋(アキ)は「飽く」や「赤」と関係があるとの説もあるようであるが確証はないらしい。英語の autumn が「集む」と似ているのはおもしろい。これはラテンの autumnus から来たに相違ないが、このラテン語は augeo から来たとの説もある。この aug がアキとは少し似ている。「あげる」「大きい」なども連想される。
 秋(シュウ)が現在の日本流では、「収」「聚《しゅう》」と同音である。
 冬(フユ)は「冷《ひ》ゆ」に通じ「氷《ひょう》」に通じ χι※[#アキュートアクセント付きω、188−下−15]ν(雪)にも通じる。露語の zima は霜(シモ)や寒(サム)や梵語《ぼんご》の hima(雪)やラテンの hiems(冬)やギリシアの cheimon(冬)やまたペルシア語の sarmai(寒い)にも似ている。フィンランド語の kuura(霜)は日本の「こほり」の音便読みに近い。英語の cold は冷肉(コールミート)のコールである。氷《こお》るに近い。朝鮮語で冬は「キョーウル」である。ヘブライ語の寒さも「コール」である。
 Winter は日本語の「いてる」とどこか似ているとも言われよう。
 フランス語の冬 hiver はラテンの hibernum であろうがこれを「冷える」と比べてみるのも一興である。

 日本の山には「何々やま」と「何々だけ」とがある。アラビアの山 jabal ペルシアの山 jebel は一見「ヤマ」と縁が遠いようであるがjがyになりbがmになる例は多いようであるから、それほど無関係ではない。(邪はジャでありヤである。馬はバでありマである)
 トルコ語の山 dagh は「だけ」に似ている。アジア中部には tagh のついた山がいろいろある。ターグは「たうげ」に似ている。
 ドイツ語の屋根 Dach は上記の dagh に通じる。「棟《むね》」が「峰《みね》」に通ずるのと類する。
 アイヌの「ヌプリ」は「登り」に通じ、山頂を意味する「タプカ」も「峠(タウゲ)」に少し似ている。峠が「たむけ」の音便だとの説は受け取れない。
 山(シャン、サン)の仲間はちょっと見当たらないが、しかしアイヌの「シン」は地や陸を意味すると同時にまた「山地」(平地に対する)をも意味するそうである。これに多数を意味する接尾音をつけた「シンヌ」はたくさんな山地でこれが「信濃《しなの》」に似るなどちょっとおもしろいお慰みである。
 アイヌ語「シリ」はいろいろの意味があるがその中で陸地を意味する場合もある。またこれに他の語が結びついた時には「シリ」が山を意味する事もあるらしい。この「シリ」が梵語《ぼんご》の山「ギリ」に通じる可能性がある。
 この「ギリ」は露語の「ゴーラ」に縁がありそうに見える。箱根《はこね》の強羅《ごうら》を思い出させる。また信州《しんしゅう》に「ゴーロ」という山名があり、高井富士《たかいふじ》の一部にも「ゴーロ」という地名がある。上田《うえだ》地方方言で「ゴーロ」は石地の意だそうである。土佐の山にも「ナカギリ」という地名がある。
 日本の山名に「カラ」「クラ」のついたのの多い事を注意すべきである。「丘陵」もkとrである。
 一方ではまた露語でgがhに代用されまた時にvのように発音されることから見ると、フィン語の山 vuori やチェック語の hora が同じものになるし、hが消えたりvが母音化するとギリシアの oro や蒙古《もうこ》の oola も一つになって来る。またヘブライの山 har も親類になって来るから妙である。
 ドイツの Berg はだいぶちがうが、しかしgを流動的にし、bをvにすればフィン語に接近し、bを唇音《しんおん》の m へ導けばタミール語の malai に似て来る。後者は「盛り土」の「盛り」に似る。日本で山の名に「モリ」の多いのが、みんな「森」の意だかどうかわからない。
 ラテン系の mons, monte, montagne, mountain 等は明白な一群を形成していて上記とは縁が遠く見える。これに似た日本語はちょっと思い出せない。無理に持って来れば饅頭《まんじゅう》が mound に似ている、これはおかしい。
 ハンガリア語の山 hegy(ハヂ)が「飛騨《ひだ》」に似ているのが妙である。このgはむしろdに似た音であるから。日本語「ひたを」は小山の意である。
 ペルシア語の小山 kuh(クフ)は「丘《きゅう》」や「岡《こう》」に縁がある。アイヌの「コム」もやや似ている。この「コム」は小山であり、また瘤《こぶ》である。すなわちmをbに代えたのが日本語の「こぶ」である。これと多少の縁のあるのが英語の knob, hump, hummock, ドイツの Knopf, Knauf などである。その他「瘤」の仲間にはマレイの gmbal, ロシアの gorb, ズールーの kuhan, ハンガリアの 〔gomb, csomo'〕 等である。
 オロチは「丘の霊」だとの説がある。「オ」は「丘」で「ロ」は接尾語だということである。この「オロ」がギリシア語や蒙古語《もうこご》の山とそっくりなのがおもしろい。
「ムレ」は山の古語だそうであるが、これは上記タミール語の malai に少し似ている。朝鮮のモイよりもこのほうが近い。また前述の理由からドイツ語やフィン語とも音声的に縁がある。
 毎回断っているとおり、相似の事実を指摘するだけで、なんらの因果関係を付会するつもりはないから誤解のないように願いたい。
[#地から2字上げ](昭和八年七月、鉄塔)

   四

「ウミ」(海)のヘブライ語が 〔ya_m〕 である。「ヨミノクニ」は黄泉でもあるがまた「海」だとの説もあったように思う。この「ヤーム」が「ウミ」よりもむしろ「ヤマ」に似ているのがおもしろい。西グリンランドのエスキモーの言葉 imaq は海で imeq は水である。qはいろいろに変化するから ima, ime が「ウミ」であり水である。英語の humid(水けある)の終わりのdをとれば「ウミ」に近くなり、第二|綴字《てつじ》だけだと「ミヅ」になる。
 英の sea はチュートンの 〔sae&〕 から来たとある。saiwiz も連関している。これが「ウシホ」(ウシオ)の「シオ」と少しは似ている。
「ワダツミ」「ワダノハラ」の「ワダ」は water や露の voda やその他同類の水を意味する言葉と類し、また「ワタル」という意味の wade(L. vadere) および関係の諸語と似ている。梵語《ぼんご》 udadhi(海)が単数四格で終わりにmがつけば「ワダツミ」に近づく。
「オキ」(沖)はギリシア「オーケアノス」の頭部に似る。
「カタ」(潟)はタミール語の海 kadal に近い。
 朝鮮のパーターはやはり「ワタ」の群に入れ得られよう。
「ナダ」は梵語の川 nadi に似ている。

「カハ」(川、河、カワ)は「河《ホー》」と実際に縁がありそうである。その他にはシンハリースの ganga(川)とわずかばかり似るだけで、他にちょっと相手が見つからない。
「ナガレ」はもちろん「流れ」であるが、ある人の話では「ナガ」は「長」で「ルル」が「流」であろうとの事である。これを「リウ」と読むとギリシアの「レオ」(流れる)と近い。
 トルコの「ネフル nehr」(川)はhを例のgにすると、「ナガレ」に近よる。
 朝鮮の「ナイ」(川)とアイヌの「ナイ」(川、谷)はそっくりであることから見ると日本内地でも同じ言葉で川を意味する地名がありそうに思う。
 土佐に奈半利《なはり》川と伊尾木《いおき》川とが並んでいる。おもしろいことには、アラビア語の川は「ナフル」、ヘブライのが「ナハル」「ナーバール」等。フィン語の川は yoki 「ヨキ」である。もちろん、直接の縁があろうとは思われぬ。また上記の川名も川の名が先か土地の名が先か、それもわから
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