言葉の不思議
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木村房吉《きむらふさきち》
|:ルビの付く文字列の始まりに特定する記号
(例)所載|木村房吉《きむらふさきち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔ha_sita〕 は笑うべき事で
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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一
「鉄塔」第一号所載|木村房吉《きむらふさきち》氏の「ほとけ」の中に、自分が先年「思想」に書いた言語の統計的研究方法(万華鏡《まんげきょう》所載)に関する論文のことが引き合いに出ていたので、これを機縁にして思いついた事を少し書いてみる。
「わらふ」と laugh についてもいろいろなおもしろい事実がある。laugh は (A|S《*》.)hlehhan から出たことになっているらしいが、この最初のhがとれて英語やドイツ語になり、そのhが「は」になり、それから「わ」になったと仮定するとどうやら日本語の「笑ふ」になりそうである。ギリシアの gelao もgが gh になり、それからgがとれて、「は」「わ」と変わればやはり日本語になるからおもしろい。(L.)rideo, (Fr.)rire は少しちがうが「ら」行であるだけはたしかである。「げらげら笑ふ」「へらへら笑ふ」というから g+l や h+l のような組み合わせは全く擬音的かもしれない。マレイの glak も同様である。馬の笑うのは ilai でこれは日本に近い。
「あざ笑ふ」の「あさ」は「あさみ笑ふ」の「あさ」かと思うがこれは (Skt.)√has に通じる。一人称単数現在なら hasami だからよく似ている。〔ha_sita〕 は笑うべき事で「はしたない」に通じる。「はしゃぐ」が笑い騒ぐ事で、「あさましい」も場合によると「笑ひ事」であるのもおもしろい。
セミティックの方面でも (Ar.)basama は「微笑する」で「あさむ」「あさましい」と似ている。しかし「笑ふ」の dahika はむしろ「たはけ」に似ている。(Ar.)fariha は「喜ぶ」で「わらふ」に似ている。
「あさましい」はまた (Skt.)vismayas で「驚く」ほうにも通じるが、それよりも元の smi, smaya で微笑にもなる。
(Skt.)garh は非難するほうだが軽蔑《けいべつ》して笑うほうにもなりうるのである。これも g+r である。そう言えば「愚弄《ぐろう》」もやはり g+r だから妙である。
「べらぼう」も引き合いに出たが、これについて手近なものは 〔(Skt.)prabhu_〕 また parama でいずれも「べらぼう」の意がなくはない。しかしまた、「強い」ほうの意味の bala から出た balavat だって似ていなくはない。「珍しい」「前例のない」ほうの 〔apra_pya, apurva〕 でも、やはり日本式ローマ字で書くと p+r+b(m) の部類にはいる。これらはサンスクリトとしてはきわめて明白に、それぞれ全く異なる根幹から生じたものであるのに、音のほうではどこか共通なものがあり、同時に意味のほうにも共通なものがあるから全く不思議な事実である。
英語の brave や bravo も「べらぼう」の従兄弟《いとこ》であるが、これはたぶん (L.)barbarus と関係があるという説がある。そうとすればギリシアの barbaros とも共通に、外国人を軽蔑《けいべつ》していうときの名であったらしい。しかし「勇敢」では少しぐあいが悪い。また一方で Barbarossa が「赤ひげ」であるのも不思議である。
〔(Ar.)gharib, ghuraba_〕「異常」は喉音《こうおん》のgをとると「わらふ」にも似てるし、hをbに変えると「べらぼう」のほうに近づく。すると結局「わらふ」と「べらぼう」も従兄弟だか再従兄弟《またいとこ》だかわからなくなるところに興味がある。ついでに 〔(Skt.)ullasita_〕 が「うれしい」で (L.)jocus が「茶化す」に通じるのもおもしろい。
barbarus で思いだすのは「野蛮」と (Skt.)yavana である。後者は、ギリシア人(Ionian)であったのが後には一般外国人、あるいは回教徒の意に用いられ、ちょうどギリシア人の barbaros に相当するものになっているからおもしろい。東夷《とうい》南蛮の類であり、毛唐人《けとうじん》の仲間である。この「ヤ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ナ」が「野蛮」に通じまた「野暮《やぼ》な」に通ずるところに妙味がないとは言われない。
またこの「毛唐」がギリシアの「海の化けもの」〔ke`tos〕 に通じ、「けだもの」、「気疎《けうと》い」にも縁がなくはない。
話は変わるが二三日前若い人たちと夕食をくったとき「スキ焼き」の語原だと言って某新聞に載っていた記事が話題にのぼった。維新前牛肉など食うのは禁物であるからこっそり畑へ出てたき火をする。そうして肉片を鋤《すき》の鉄板上に載せたのを火上にかざし、じわじわ焼いて食ったというのである。こういうあんまりうま過ぎるのはたいていうそに決まっていると言って皆で笑った。そのときの一説に「すき」は steak だろうというのがあった。日本人は子音の重なるのは不得意だから st[#「st」は縦中横] がsになることは可能である。漆喰《しっくい》が stucco と兄弟だとすると、この説にも一顧の価値があるかもしれない。ついでに (Skt.)jval は「燃える」である。「じわりじわり」に通じる。
なすの「しぎ焼き」の「しぎ」にもいろいろこじつけがあるが、「しき」と変えてみると、結局「すき」と同じでないかという疑いが起こる。
steak はアイスランディックの steik と親類らしいが「ひたきのおきな」の「ひたき」を「したき」となまると似て来るからおもしろい。「焚《た》」くは (Skt.)dah に通ずるがこのほうはよほどもっともらしい。(Ice.)steik は steka と親類で英語の stick すなわちステッキと関係があり、串《くし》に刺して火にあぶる「串焼き」であったらしい。このステッキがドイツの stechen につながるとすると今度は「突く」「つつく」が steik に近づいて来るし、また後者と「鋤《す》く」ともおのずからいくぶんの縁故を生じて来るのである。
こんな物ずきな比較は現在の言語学の領域とは没交渉な仕事である。しかし上述のいろいろな不思議な事実はやはり不思議な事実であってその事実は科学的説明を要求する。どれもこれもことごとく偶然の現象だとして片付ける前にともかくも何かしら合理的な方法のふるいにかけて吟味しなければならない。しかし従来のように言語の進化をただ一次元的、線的のもののように考えるあまりに単純な基礎仮定から出発した言語学ではこの問題は説明される見込みはない。たとえば自分がかつて提議したような統計的方法でも、少なくも一つの試みとして試みなければならないと思う。上記の諸例はそういう方法を試みるであろう場合に必要な非常に多量な材料の中の二三の例として数えられるべきものであろうと思う。
もし許さるるならば、時々こういう材料の断片を当誌の余白を借りて後日のために記録しておきたいと思う。[#地から2字上げ](昭和七年十二月、鉄塔)
二
錨《いかり》と怒《いか》り、いずれも「イカリ」である。ところが英語の anchor と anger が、日本人から見ればやはり互いに似ている。「アンカー」と「アンガー」である。
anchor はラチンの anchara でまたギリシアのアンキユラで「曲がった鈎《かぎ》」であり、従ってまた英の angle とも関係しているらしい。ペルシアでは 〔la_ngar〕 である。サンスクリトの 〔la_ngala〕 は鋤《すき》であるがしかし錨のような意味もあるらしい。同時に membrum virile の意味もある。ロシアの錨はヤーコリである。こうなるとよほど日本語に接近する。「イカリ」はまた「いくり」にも似ている。
anger はアイスランドの 〔a&ngr〕 やLの angor などのような「憂苦」を意味する言葉と関係があるそうで、一方ではまたスウェーデンの「悔恨」を意味する 〔a&nger〕 に通ずる。このオンゲルは「オコル」に似ている。
怒りを意味する choler はギリシアの胆汁《たんじゅう》のコレーから来ているそうで、コレラや gall や yellow なども縁があるそうである。イカリのイが単に発語だと仮定するとこれがやはり似通《にかよ》って来るからおもしろい。ギリシアのカレポス、オルギロス、アグリオスいずれにしてもkまたはgの次にlまたはrの音がつづいて来るのがおもしろい。
ロシアではgがhに通ずる。日本ではhがfに通ずる。それでgrの代わりにfrを取ってみると英国の激怒 fury, Lの furia, furere に対する。
九州へんではdがrに通ずる。そこで、grの代わりにgdを取ってみると、アラビアの動詞 ghadiba(怒り)の中に見いだされる。この最後の ba は時によりただのbによって響きを失うことはあるのである。
名古屋《なごや》へんの言葉で怒ることをグザルというそうであるが、マレイでは gusari となっている。土佐《とさ》の一部では子供がふきげんで guzu−guzu いうのをグジレルと言い、またグジクルという。アラビアでは「ひどく怒らせる」が 〔gha_za〕 である。
ロシアの「怒り」gniev はギリシアの動詞 aganaktein の頭部に似ている。古事記の「いごのふ」にも似ている。gn をロシア流に hn にする一方で、「忿怒《ふんぬ》」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。
英語の gnarl は「うなる」に通じる。「がなる」にも通じる。英語の vex はLの uehere に関係し「運搬」の意がありサンスクリトの vah から来たとある。日本でもオコルとオクルが似ているのと相対しておもしろい。hは往々khまたkに通じるから uehere と uokoru とはそれほど遠く離れていないのである。weigh もやはり縁があるとの事である。vah は「負う」に通じる。
腹を立てる、腹立つというのはあて字であろうと思われる。サンスクリトの krudhyati のkをhで置き換えるとともかくも hrdt という音列を得られる。これを haradati の子音と比べると同一である。偶然とするとかなり公算の少ない場合の一致である。ロシアの serditi もやはりいくらか似ているのである。苛立《いらだ》つが irritate(L.irritare) に似ていることは明白である。
「あらぶる神」の「アラブル」がLに rabere = to rage に似ていることも事実である。
「床屋」が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床《かみゆいどこ》」から来たかと思われる。その「床」がわからない。
マレイ語で頭髪を剃《そ》るのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領《らんりょう》インドでは「店」が toko である。
マレイの理髪師は tukang chukor また tukang gunting である。
アラビアでは「店」が dukkan, ペルシアでも dukan である。ペルシアの床屋さんは dallak である。
ギリ
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