官分だけの感覚を棄権している訳で、眼の明いているのに目隠しをしているようなことになるのかもしれない。
 それはとにかく煙草をのまぬ人は喫煙者に同情がないということだけはたしかである。図書室などで喫煙を禁じるのは、喫煙家にとっては読書を禁じられると同等の効果を生じる。
 先年胃をわずらった時に医者から煙草を止《や》めた方がいいと云われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないから止《よ》さない」と云ったら、「乱暴なことを云う男だ」と云って笑われた。もしあの時に煙草を止めていたら胃の方はたしかによくなったかもしれないが、その代りにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。何故だか理由は分らないが唯そんな気がするのである。
 煙草の効能の一つは憂苦を忘れさせ癇癪《かんしゃく》の虫を殺すにあるであろうが、それには巻煙草よりはやはり煙管の方がよい。昔自分に親しかったある老人は機嫌が悪いと何とも云えない変な咳払いをしては、煙管の雁首で灰吹をなぐり付けるので、灰吹の頂上がいつも不規則な日本アルプス形の凸凹を示していた。そればかりでなく煙管の吸口をガリガリ噛むので銀の吸口が扁《ひら》たくひし
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