て眼を刺戟し、肝心な瞬間に星の通過《トランシット》を読み損なうようなことさえあった。後にはこれに懲《こ》りて、いよいよという時の少し前に、眼は望遠鏡に押付けたまま、片手は鉛筆片手は観測簿で塞がっているから、口で煙草を吹き出して盲目捜しに足で踏み消すというきわどい芸当を演じた。火事を出さなかったのが不思議なくらいである。
油絵に凝《こ》っていた頃の事である。一通り画面を塗りつぶして、さて全体の効果をよく見渡してからそろそろ仕上げにかかろうというときの一服もちょっと説明の六《むつ》かしい霊妙な味のあるものであった。要するに真剣にはたらいたあとの一服が一番うまいということになるらしい。閑《ひま》で退屈してのむ煙草の味はやはり空虚なような気がする。
煙草の「味」とは云うもの、これは明らかに純粋な味覚でもなく、そうかと云って普通の嗅覚《きゅうかく》でもない。舌や口蓋や鼻腔《びこう》粘膜などよりももっと奥の方の咽喉の感覚で謂《い》わば煙覚とでも名づくべきもののような気がする。そうするとこれは普通にいわゆる五官の外の第六官に数えるべきものかもしれない。してみると煙草をのまない人はのむ人に比べて一
前へ
次へ
全20ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング