所氏を捉《つか》まえて、ミスター・ターケドーロと呼びかけてはしきりにアイルランド問題を論じていた。このターケドーロが出ると日本人仲間は皆笑い出したが、爺さんには何が可笑《おか》しいのか見当が付かなかったに相違ない。
アインシュタインが東京へ来た頃からわれわれ仲間の間でパイプが流行し出したような気がする。しかしパイプ道楽は自分のような不精者には不向きである。結局世話のかからない「朝日」が一番である。
煙草の一番うまいのはやはり仕事に手をとられてみっしり働いて草臥《くたび》れたあとの一服であろう。また仕事の合間の暇を盗んでの一服もそうである。学生時代に夜|更《ふ》けて天文の観測をやらされた時など、暦表を繰って手頃な星を選み出し、望遠鏡の度盛を合わせておいて、クロノメーターの刻音を数えながら目的の星が視野に這入って来るのを待っている、その際《きわ》どい一、二分間を盗んで吸付ける一服は、ことに凍るような霜夜もようやく更けて、そろそろ腹の減って来るときなど、実に忘れ難い不思議な慰安の霊薬であった。いよいよ星が見え出しても口に銜《くわ》えた煙草を捨てないで望遠鏡を覗《のぞ》いていると煙が直上し
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング