はずになっており、従ってパリ滞在中は財布の内圧が極度に低下していたので特に煙草の専売に好感を有《も》ち損なったのであろう。マッチも高かったと思うが、それよりもマッチのフランス語を教わって来るのを忘れていたためにパリへ着いて早速当惑を感じた。ドイツで教わったフランス語の先生が煙草を吸わないのがいけなかったらしい。とにかく金がないのに高い煙草を吸い、高いマロン・グラセーをかじったのが祟《たた》ったと見えて、今日でも時々、西洋に居て金が無くなって困る夢を見る。大抵胃の工合《ぐあい》の悪いときであるらしいが、そういう夢の中ではきまって非常に流暢《りゅうちょう》にドイツ語がしゃべれるのが不思議である。パリで金が少ないのと、言葉が自由でないのと両方で余計な神経を使ったのが脳髄のどこかの隅に薄いしみのように残っているものと見える。心理分析研究家の材料にこの夢を提供する。
 西洋にいる間はパイプは手にしなかった。当時ドイツやフランスではそんなに流行《はや》っていなかったような気がする。ロンドンの宿に同宿していた何とかいう爺さんが、夕飯後ストーヴの前で旨《うま》そうにパイプをふかしながら自分等の一行の田
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