喫煙四十年
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甥《おい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京|平河町《ひらかわちょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]
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はじめて煙草を吸ったのは十五、六歳頃の中学時代であった。自分よりは一つ年上の甥《おい》のRが煙草を吸って白い煙を威勢よく両方の鼻の孔《あな》から出すのが珍しく羨《うらや》ましくなったものらしい。その頃同年輩の中学生で喫煙するのはちっとも珍しくなかったし、それに父は非常な愛煙家であったから両親の許可を得るには何の困難もなかった。皮製で財布のような恰好《かっこう》をした煙草入れに真鍮《しんちゅう》の鉈豆煙管《なたまめきせる》を買ってもらって得意になっていた。それからまた胴乱《どうらん》と云って桐《きり》の木を刳《く》り抜いて印籠《いんろう》形にした煙草入れを竹の煙管筒にぶら下げたのを腰に差すことが学生間に流行《はや》っていて、喧嘩好きの海南健児の中にはそれを一つの攻防の武器と心得ていたのもあったらしい。とにかくその胴乱も買ってもらって嬉しがっていたようである。
はじめのうちは煙を咽喉《のど》へ入れるとたちまち噎《む》せかえり、咽喉も鼻の奥も痛んで困った、それよりも閉口したのは船に酔ったように胸が悪くなって吐きそうになった。便所へ入ってしゃがんでいると直ると云われてそれを実行したことはたしかであるが、それがどれだけ利いたかは覚えていない。それから、飯を食うと米の飯が妙に苦くて脂《やに》を嘗《な》めるようであった。全く何一つとして好《い》いことはなかったのに、どうしてそれを我慢してあらゆる困難を克服したか分りかねる。しかしとにかくそれに打勝って平気で鼻の孔から煙を出すようにならないと一人前になれないような気がしたことはたしかである。
煙草はたしか「極上国分《ごくじょうこくぶ》」と赤字を粗末な木版で刷った紙袋入りの刻煙草《きざみたばこ》であったが、勿論国分で刻《きざ》んだのではなくて近所の煙草屋できざんだものである。天井から竹竿で突張った鉋《かんな》のようなものでごしりごしりと刻んでいるのが往来から見えていた。考えてみると実に原始的なもので、おそらく煙草の伝来以来そのままの器械であったろうと思われる。
農夫などにはまだ燧袋《ひうちぶくろ》で火を切り出しているのがあった。それが羨ましくなって真似をしたことがあったが、なかなか呼吸が六《むつ》かしくて結局は両手の指を痛くするだけで十分に目的を達することが出来なかった。神棚の燈明《とうみょう》をつけるために使う燧金《ひうちがね》には大きな木の板片が把手《とって》についているし、ほくちも多量にあるから点火しやすいが、喫煙用のは小さい鉄片の頭を指先で抓《つま》んで打ちつけ、その火花を石に添えたわずかな火口《ほくち》に点じようとするのだから六かしいのである。
火の消えない吸殻《すいがら》を掌《てのひら》に入れて転がしながら、それで次の一服を吸付けるという芸当も真似をした。この方はそんなに六かしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれが出来ないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。馬鹿げた話であるが、しかしこの馬鹿げた気持がいつまでも抜け切らなかったおかげでこの年まで六かしい学問の修業をつづけて来たかもしれない。
羅宇《らお》の真中を三本の指先で水平に支えて煙管を鉛直軸《えんちょくじく》のまわりに廻転させるという芸当も出来ないと幅が利かなかった。これも馬鹿げているが、後年器械などいじるための指の訓練にはいくらかなったかもしれない。人差指に雁首《がんくび》を引掛けてぶら下げておいてから指で空中に円を画《えが》きながら煙管をプロペラのごとく廻転するという曲芸は遠心力の物理を教わらない前に実験だけは卒業していた。
いつも同じ羅宇屋《らおや》が巡廻して来た。煙草は専売でなかった代りに何の商売にもあまり競争者のない時代であったのである。その羅宇屋が一風変った男で、小柄ではあったが立派な上品な顔をしていて言葉使いも野卑でなく、そうしてなかなかの街頭哲学者で、いろいろ面白いリマークをドロップする男であった。いつもバンドのとれたよごれた鼠色のフェルト帽を目深《まぶか》に冠《かぶ》っていて、誰も彼の頭の頂上に髪があるかないかを確かめたものはないという話であった。その頃の羅宇屋は今のようにピーピー汽笛を鳴らして引いて来るのではなくて、天秤棒《てんびんぼう》で振り分けに商売道具をかついで来るのであったが、どん
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