な道具があったかはっきりした記憶がない。しかしいずれも先祖代々百年も使い馴らしたようなものばかりであった。道具も永く使い馴らして手擦れのしたものには何だか人間の魂がはいっているような気がするものであるが、この羅宇屋の道具にも実際一つ一つに「個性」があったようである。なんでも赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《あかさ》びた鉄火鉢に炭火を入れてあって、それで煙管の脂《やに》を掃除する針金を焼いたり、また新しい羅宇竹を挿込《さしこ》む前にその端をこの火鉢の熱灰《あつはい》の中にしばらく埋めて柔らげたりするのであった。柔らげた竹の端を樫《かし》の樹の板に明けた円い孔へ挿込んでぐいぐい捻《ね》じる、そうしてだんだんに少しずつ小さい孔へ順々に挿込んで責めて行くと竹の端が少し縊《くび》れて細くなる。それを雁首に挿込んでおいて他方の端を拍子木の片っ方みたような棒で叩き込む。次には同じようにして吸口《すいくち》の方を嵌《は》め込み叩き込むのであるが、これを太鼓のばちのように振り廻す手付きがなかなか面白い見物であった。またそのきゅんきゅんと叩く音が河向いの塀に反響したような気がするくらい鮮明な印象が残っている。そうして河畔に茂った「せんだん」の花がほろほろこぼれているような夏の日盛りの場面がその背景となっているのである。
父はいろいろの骨董道楽をしただけに煙草道具にもなかなか凝《こ》ったものを揃えていた。その中に鉄煙管の吸口に純金の口金の付いたのがあって、その金の部分だけが螺旋《ねじ》で取り外ずしの出来るようになっていた。羅宇屋に盗まれる恐れがあるので外ずして渡す趣向になっていたものらしい。子供心に何だかそれが少しぎごちなく思われた。そのせいでもないが自分は今日まで煙管に限らず時計でもボタンでも金や白金の品物をもつ気がしなかった。
巻煙草を吸い出したのもやはり中学時代のずっと後の方であったらしい。宅《うち》には東京|平河町《ひらかわちょう》の土田という家で製した紙巻がいつも沢山に仕入れてあった。平河町は自分の生れた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切紙巻が流行し出して今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだっかた東京の名妓の写真が一枚ずつ紙函《かみばこ》に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の中学生の間にも広く宣伝された。煙草の味もやはり甘ったるい、しつっこい、安香水のような香のするものであったような気がする。
今の朝日敷島の先祖と思われる天狗煙草の栄えたのは日清《にっしん》戦争以後ではなかったかと思う。赤天狗青天狗銀天狗金天狗という順序で煙草の品位が上がって行ったが、その包装紙の意匠も名に相応《ふさわ》しい俗悪なものであった。轡《くつわ》の紋章に天狗の絵もあったように思う。その俗衆趣味は、ややもすればウェルテリズムの阿片《あへん》に酔う危険のあったその頃のわれわれ青年の眼を現実の俗世間に向けさせる効果があったかもしれない。十八歳の夏休みに東京へ遊びに来て尾張町《おわりちょう》のI家に厄介になっていた頃、銀座通りを馬車で通る赤服の岩谷天狗松平《いわやてんぐまつへい》氏を見掛けた記憶がある。銀座二丁目辺の東側に店があって、赤塗壁の軒の上に大きな天狗の面がその傍若無人の鼻を往来の上に突出していたように思う。松平氏は第二夫人以下第何十夫人までを包括する日本一の大家族の主人だというゴシップも聞いたが事実は知らない。とにかく今日のいわゆるファイティング・スピリットの旺盛な勇士であって、今日なら一部の人士の尊敬の的になったであろうに、惜しいことに少し時代が早過ぎたために、若きウェルテルやルディン達にはひどく毛嫌いされたようであった。
先達《せんだっ》て開かれた「煙草に関する展覧会」でこの天狗煙草の標本に再会して本当に涙の出る程なつかしかったが、これはおそらく自分だけには限らないであろう。天狗がなつかしいのでなくて、その頃の我が環境がなつかしいのである。
官製煙草が出来るようになったときの記憶は全く空白である。しかし西洋で二年半暮して帰りに、シヤトルで日本郵船丹波丸に乗って久し振りに吸った敷島が恐ろしく紙臭くて、どうしてもこれが煙草とは思われなかった、その時の不思議な気持だけは忘れることが出来ない。しかしそれも一日経ったらすぐ馴れてしまって日本人の吸う敷島の味を完全に取り戻すことが出来た。
ドイツ滞在中はブリキ函《かん》に入った「マノリ」というのを日常吸っていた。ある時下宿の老嬢フロイライン・シュメルツァー達と話していたら、何かの笑談《じょうだん》を云って「エス・イスト・ヤー・マノーリ」というから、それは何の事だと聞いてみると、「
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