馬鹿げた事だ」という意味の流行語だという。どういう訳で「マノリ」が「馬鹿なこと」になるかと聞いてみたが要領を得なかった。その後この疑問を遙々《はるばる》日本へ持って帰って仕舞い込んで忘れていた。専売局の方々にでも聞いてみたら分るかもしれないが、事によると、これは自分がちょっとかつがれたのかもしれない。
ドイツは葉巻が安くて煙草好きには楽土であった。二、三十|片《ペニヒ》で相当なものが吸われた。馬車屋《クッチャー》や労働者の吸うもっと安い葉巻で、吸口の方に藁切《わらぎ》れが飛び出したようなのがあったがその方は試《ため》した事がない。
ベルリンの美術館などの入口の脇の壁面に数寸角の金属板が蝋燭立《ろうそくたて》かなんかのように飛出しているのを何かと思ったら、入場者が吸いさしのシガーを乗っけておく棚であった。点火したのをそこへ載せておくと少時《しばらく》すると自然に消えて主人が観覧を了《お》えて再び出現するのを待つ、いわばシガーの供待部屋《ともまちべや》である。これが日本の美術館だったらどうであろう。這入《はい》るときに置いた吸いさしが、出るときにその持主の手に返る確率が少なくも一九一〇年頃のベルリンよりは少ないであろう。しかし大戦後のベルリンでこのシガーの供待所がどういう運命に見舞われたかはまだ誰からも聞く機会がない。
ベルリンでも電車の内は禁煙であったが車掌台は喫煙者《ラウハー》のために解放されていた。山高帽を少し阿弥陀《あみだ》に冠《かぶ》った中年の肥大《ふと》った男などが大きな葉巻をくわえて車掌台に凭《もた》れている姿は、その頃のベルリン風俗画の一景であった。どこかのんびりしたものであったが、日本の電車ではこれが許されない。いつか須田町《すだちょう》で乗換えたときに気まぐれに葉巻を買って吸付けたばかりに電車を棄権して日本橋まで歩いてしまった。夏目先生にその話をしたら早速その当時書いていた小説の中の点景材料に使われた。須永というあまり香《かん》ばしからぬ役割の作中人物の所業としてそれが後世に伝わることになってしまった。そのせいではないが往来で葉巻を買って吸付けることはその時限りでやめてしまった。
ドイツからパリへ行ったら葡萄酒が安い代りに煙草が高いので驚いた。聞いてみると政府の専売だからということであった。パリからロンドンへ渡ってそこで日本からの送金を受取るはずになっており、従ってパリ滞在中は財布の内圧が極度に低下していたので特に煙草の専売に好感を有《も》ち損なったのであろう。マッチも高かったと思うが、それよりもマッチのフランス語を教わって来るのを忘れていたためにパリへ着いて早速当惑を感じた。ドイツで教わったフランス語の先生が煙草を吸わないのがいけなかったらしい。とにかく金がないのに高い煙草を吸い、高いマロン・グラセーをかじったのが祟《たた》ったと見えて、今日でも時々、西洋に居て金が無くなって困る夢を見る。大抵胃の工合《ぐあい》の悪いときであるらしいが、そういう夢の中ではきまって非常に流暢《りゅうちょう》にドイツ語がしゃべれるのが不思議である。パリで金が少ないのと、言葉が自由でないのと両方で余計な神経を使ったのが脳髄のどこかの隅に薄いしみのように残っているものと見える。心理分析研究家の材料にこの夢を提供する。
西洋にいる間はパイプは手にしなかった。当時ドイツやフランスではそんなに流行《はや》っていなかったような気がする。ロンドンの宿に同宿していた何とかいう爺さんが、夕飯後ストーヴの前で旨《うま》そうにパイプをふかしながら自分等の一行の田所氏を捉《つか》まえて、ミスター・ターケドーロと呼びかけてはしきりにアイルランド問題を論じていた。このターケドーロが出ると日本人仲間は皆笑い出したが、爺さんには何が可笑《おか》しいのか見当が付かなかったに相違ない。
アインシュタインが東京へ来た頃からわれわれ仲間の間でパイプが流行し出したような気がする。しかしパイプ道楽は自分のような不精者には不向きである。結局世話のかからない「朝日」が一番である。
煙草の一番うまいのはやはり仕事に手をとられてみっしり働いて草臥《くたび》れたあとの一服であろう。また仕事の合間の暇を盗んでの一服もそうである。学生時代に夜|更《ふ》けて天文の観測をやらされた時など、暦表を繰って手頃な星を選み出し、望遠鏡の度盛を合わせておいて、クロノメーターの刻音を数えながら目的の星が視野に這入って来るのを待っている、その際《きわ》どい一、二分間を盗んで吸付ける一服は、ことに凍るような霜夜もようやく更けて、そろそろ腹の減って来るときなど、実に忘れ難い不思議な慰安の霊薬であった。いよいよ星が見え出しても口に銜《くわ》えた煙草を捨てないで望遠鏡を覗《のぞ》いていると煙が直上し
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