子との間には了解が成立しているのに頼まれもせぬ傍観者がこれを問題にして陰で盛んにその先生を非難し弟子をたきつけるといったような場合は、西洋でも東洋でもしばしば見聞する現象である。もっとも中には、実際に、単に素材のみならず、その造型構成のイデーまでも弟子の独創によってできあがったものを、先生が、先生であるというだけの特権を濫用してそっくりわが物にして涼しい顔をする場合もないとは言われないが、またそうでない場合がずいぶんあるようである。弟子《でし》がいったい何をしていいか見当のわからない場合に、一つのものになる見込みのあるテーマを授け、それに対する研究進行の径路を指示するのはそうだれにでも容易なことではないのであって、これだけでも一つの仕事の骨格に相当する。そうして得た結果がいったい何に役立つか弟子自身には見当のつかない場合に、先生がそれを使ってともかくも一つのまとまった帰納とそれからの演繹《えんえき》をすることに成功したとすれば、この場合は明白に先生が陶工であり弟子は陶土の供給者でなければならない。それにもかかわらず、冷静な第三者の目には明白にこの場合に該当すると思われる場合においても、
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