も、はたのものが承知しないで、頼まれもせぬ同情者となって陶工の「不徳義」を責めるような事件が起こることもある。陶工の得た名声や利得が大きければ大きいほど、こういう事件の持ち上がる確率が大きいようである。
文学上の作品などでも、よくこれに類した「剽窃《ひょうせつ》問題」が持ち上がる事がある。大文豪などはほとんど大剽窃家である。
哲学者科学者皆そうである。アリストテレースなどは贓品《ぞうひん》の蔵を建てた男である。仕事が大きいほど罪も深い。
ダーウィンが彼の進化論をまとめ上げて、それが一般に持てはやされた時代には、おそらくダーウィンに対して前述の粘土供給者と同様の怨恨《えんこん》をいだき、ダーウィンを盗賊呼ばわりしたものが三人や五人は必ずあったであろうと想像される。これほど大きな仕事でなくても、もっと小さな科学者の小さなアルバイトについても、たとえば一人の教授がその弟子《でし》の労力の結果を利用して一つの小さな系統化を行ない、一つの小さな結論をまとめた場合に、その弟子が「自分の粉骨砕身の努力の結果を先生がそっくりさらって一人でうまい汁《しる》を吸った」と言って恨む場合や、また先生と弟子との間には了解が成立しているのに頼まれもせぬ傍観者がこれを問題にして陰で盛んにその先生を非難し弟子をたきつけるといったような場合は、西洋でも東洋でもしばしば見聞する現象である。もっとも中には、実際に、単に素材のみならず、その造型構成のイデーまでも弟子の独創によってできあがったものを、先生が、先生であるというだけの特権を濫用してそっくりわが物にして涼しい顔をする場合もないとは言われないが、またそうでない場合がずいぶんあるようである。弟子《でし》がいったい何をしていいか見当のわからない場合に、一つのものになる見込みのあるテーマを授け、それに対する研究進行の径路を指示するのはそうだれにでも容易なことではないのであって、これだけでも一つの仕事の骨格に相当する。そうして得た結果がいったい何に役立つか弟子自身には見当のつかない場合に、先生がそれを使ってともかくも一つのまとまった帰納とそれからの演繹《えんえき》をすることに成功したとすれば、この場合は明白に先生が陶工であり弟子は陶土の供給者でなければならない。それにもかかわらず、冷静な第三者の目には明白にこの場合に該当すると思われる場合においても、
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