空想日録
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白熊《しろくま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)防寒|長靴《ながぐつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年三月、改造)
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一 白熊の死
探険船シビリアコフ号の北氷洋航海中に撮影されたエピソード映画の中に、一頭の白熊《しろくま》を射殺し、その子を生け捕る光景が記録されている。
果てもない氷海を張りつめた流氷のモザイクの一片に乗っかって親子連れの白熊が不思議そうにこっちをながめている。おそらく生まれて始めて汽船というものに出会って、そうしてその上にうごめく人影を奇妙な鳥類だとでも思ってまじまじとながめているのであろう。甲板の手すりにもたれて銃口をそろえた船員の群れがいる。「まだ打っちゃいけない。」映画監督のシュネイデロフが叫ぶ。銃砲より先にカメラの射撃が始まるのである。白熊は、自分の毛皮から放射する光線が遠方のカメラのレンズの中に集約されて感光フィルムの上に隠像《レーテントイメージ》の記録を作っていることなどは夢にも知らないで、罪のない好奇と驚異の眼をこの浮き島の上の残忍な屠殺者《とさつしゃ》の群れに向けているのである。撮影が終わると待ち兼ねていた銃口からいっせいに薄い無煙火薬の煙がほとばしる。親熊は突然あと足を折って尻《しり》もちをつくような格好をして一度ぐるりと回るかと思うと、急いで駆け出すが、すぐに後ろを振りむいて何かしら自分の腰に食いついている目に見えぬ敵を追い払おうとする様子をする。命取りの強敵はもう深く体内に侵入しているがそんなことは熊にはわからない。またあわてて駆け出す。わけはわからないが本能的に敵から遠ざかるような方向に駆け出すのである。右の腰部からまっ黒な血がどくどく流れ出して氷盤の上を染める。映画では黒いだけのこの血が実際にはいかに美しく物すごい紅色を氷海のただ中に染め出したことであろう。そのうちにまたいくつかの弾《たま》をくらったらしい。いくら逃げても追い駆けて来る体内の敵をまくつもりで最後の奥の手を出してま近な二つの氷盤の間隙《かんげき》にもぐり込もうとするが、割れ目は彼女の肥大な体躯《たいく》を容《い》れるにはあまりに狭い。この最後の努力でわずかに残った気力が尽
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