弟子が先生を恨みゴシップがたきつけるという事件の起こることが意外に多いように見受けられる。これは科学的のアルバイトというものの本性に関する認識不足から起こる現象である。そうした不平をいう弟子にはまた当然独創力に乏しい弱い頭の持ち主が多いわけである。もし独創力のある弟子なら、そんな些細《ささい》なものを先生にくれてやっても、自分の仕事は目の前にいくらでもころがっているからである。
陶工が陶土およびその採掘者に対して感謝の辞を述べる場合は少ない。これは不都合なようにも思われるが、よく考えてみると、名陶工にはだれでもはなれないが、土を掘ることはたいていだれにでもできるからであろう。
独創力のない学生が、独創力のある先生の膝下《しっか》で仕事をしているときは仕事がおもしろいように平滑に進行する。その時弟子に自己認識の能力が欠乏していると、あたかも自分がひとりで大手を振って歩いているような気持ちがするであろう。しかし必ずしもそうでないということは、ひとたびその先生のもとを離れて一人立ちで歩いてみればすぐになるほどと納得されるのである。しかし性《たち》のいい弟子《でし》は、先生の手足になってきげんよく元気に働いている期間にすっかり先生の頭の中の原動力を認識し摂取してわが物にしてしまう。そうして一本立ちになるが早いかすぐに自分の創作に取りかかる。これに反して先生が自分の仕事を横取りしたといって泣き言を言うような弟子が一本立ちになって立派な独創力を発揮する場合はわりに少ないようである。これは当然のことであろう。
以上とはまた反対の場合もたくさんある。陶工が凡庸であるためにせっかく優良な陶土を使いながらまるで役に立たない無様《ぶざま》な廃物に等しい代物《しろもの》をこね上げることはかなりにしばしばある。これでは全く素材がかわいそうである。しかし学問の場合においては、いい素材というものは一度掘り出されればいつかは名工に見いだされて立派なものに造り上げられるもののように思われる。古い話ではあるがティコ・ブラーヘの天体観測の結果は、幾度か非科学的な占筮《せんぜい》の用にも供せられたのであろうが、結局は名工ケプレルの手によって整然たる太陽系の模型の製作に使われた。ニュートンはまたこのケプレルの作ったものを素材として、さらに偉大な彼の力学体系を建設した。これと同様な例をあげれば限りはない
前へ
次へ
全12ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング