銀座アルプス
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)闇《やみ》の中に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)岸田|劉生《りゅうせい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二分ダーシ、1−3−92]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)シャン/\/\と雪ぞりの鈴が聞こえ
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幼時の記憶の闇《やみ》の中に、ところどころぽうっと明るく照らし出されて、たとえば映画の一断片のように、そこだけはきわめてはっきりしていながら、その前後が全く消えてしまった、そういう部分がいくつか保存されて残っている。そういう夢幻のような映像の中に現われた自分の幼時の姿を現実のこの自分と直接に結びつけて考えることは存外むつかしい。それは自分のようでもあり、そうでないようでもある。自分と密接な関係のあることは確実であるが、現在の自分とのつながりがすっかり闇の中に没している。その、絶えているかつながっているかわからないようなつながりを闇の中に探り出そうとするときに、われわれは平素頼みにしている自分の理性のたよりなさを感じる。そうして人間の意識的生活というものがほんとうに夢か幻のようなものであるように思われて来るのである。そういう記憶の断片がはたしてほんとうにあったことなのか、それとも、いつかずっと後年になってから見た一夜の夢の映像の記憶を過去に投影したものだか、記憶の現実性がきわめて頼み少ないものになって来るのである。
自分の幼時のそういう夢のような記憶の断片の中に、明治十八年ごろの東京の銀座《ぎんざ》のある冬の夜の一角が映し出される。
その映画の断片によると、当時八歳の自分は両親に連れられて新富座《しんとみざ》の芝居を見に行ったことになっている。それより前に、田舎《いなか》で母に連れられて何度か芝居を見たことはあったようであるが、東京の芝居を見たのはおそらくその時がはじめてであったらしい。どんな芝居であったかほとんど記憶がないが、ただ「船弁慶《ふなべんけい》」で知盛《とももり》の幽霊が登場し、それがきらきらする薙刀《なぎなた》を持って、くるくる回りながら進んだり退いたりしたその凄惨《せいさん》に美しい姿だけが明瞭《めいりょう》に印象に残っている。それは、たしか先代の左団次《さだんじ》であったらしい。そうして相手の弁慶はおそらく団十郎《だんじゅうろう》ではなかったかと思われるが、不思議と弁慶の印象のほうはきれいに消えてなくなってしまっている。しかし時の敗者たる知盛の幽霊に対して、子供心にもひどく同情というかなんというかわからない感情をいだいたものと見えて、そういう心持ちが今でもちゃんと残留しているのである。
芝居茶屋というものの光景の記憶がかすかに残っている、それを考えると徳川時代の一角をのぞいて来たような幻覚が起こる。
芝居がはねて後に一同で銀座までぶらぶら歩いたものらしい。そうして当時の玉屋《たまや》の店へはいって父が時計か何かをひやかしたと思われる。とにかくその時の玉屋の店の光景だけは実にはっきりした映像としていつでも眼前に呼び出すことができる。
夜ふけて人通りのまばらになった表の通りには木枯らしが吹いていた。黒光りのする店先の上がり框《がまち》に腰を掛けた五十歳の父は、猟虎《らっこ》の毛皮の襟《えり》のついたマントを着ていたようである。その頭の上には魚尾形《ぎょびけい》のガスの炎が深呼吸をしていた。じょさいのない中老店員の一人は、顧客の老軍人の秘蔵子らしいお坊っちゃんの自分の前に、当時としてはめったに見られない舶来の珍しいおもちゃを並べて見せた。その一つはねずみ色の天鵞絨《びろうど》で作った身長わずかに五六寸くらいの縫いぐるみの象であるが、それが横腹の所のネジをねじると、ジャージャーと歯車のすれ合う音を立てながら走りだす、そうしてあの長い鼻を巧みに屈伸して上げたり下げたりしながら勢いよく走るのである。もう一つは毛深い熊《くま》があと足を前に投げ出してすわっている、それが首と前足とを動かして滑稽《こっけい》な格好をして踊りだすと腹の中でオルゴールのかわいらしい音楽が聞こえて来るのである。
父がもしかしたら、どれか一つは買ってくれるかと思っていたが、ねだるのにはあまりに立派すぎる貴族的なおもちゃなので遠慮していたら、やはりとうとう買ってくれなかった。それから人力《じんりき》にゆられて夜ふけの日比谷御門《ひびやごもん》をぬけ、暗いさびしい寒い練兵場わきの濠端《ほりばた》を抜けて中六番町《なかろくばんちょう》の住み家へ帰って行った。その暗い丸《まる》の内《うち》の闇《やみ》の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛《さんらん》たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのころすでにそんなものがあったかどうか事実はわからないが、自分の記憶の映画にはそういうことになっているのである。
この銀座《ぎんざ》の冬の夜の記憶が、どういうものかひどく感傷的な色彩を帯びて自分の生涯《しょうがい》につきまとって来た。それにはおそらく何か深い理由があるであろうが、それに関する手がかりは、自分の意識の世界からはどうしても探り出すことができないのである。その日の事を特に強い印象として焼き付けるだけの「光線」があったであろう、その光線はとうの昔に消えて、一枚の印画だけが永久に残っているのである。人殺しをした瞬間に偶然机の上におかれてあった紙片の上の文字が、殺人者の脳に焼き付いたような印象となって残ったという話があるが、これに似た現象は存外きわめて普通なことであるかもしれない。幼時の記憶の断片にはたいてい何かしらそういう「光線」があって、そのほうは当時「意識」されなかったために記憶から消えてしまうのではないかと思われる。
晩年になって母にたびたび聞かされたところによると、当時の自分はひどく鉄道馬車に乗るのが好きで、時々書生や出入りのだれかれに連れられてはわざわざ乗りに行ったものだそうである。雨の降る日に二条の鉄路の中央のひどいぬかるみの流れを蹴《け》たててペンキ塗りの箱車を引いて行く二頭のやせ馬のあわれな姿や、それが時々爆発的に糞《ふん》をする様子などを思い出すことはできる。鉄路が悪かったのか車台の安定が悪かったのか、車は前後におじぎをするように揺れながら進行する。車掌が豆腐屋のような角笛《つのぶえ》を吹いていたように思うが、それはガタ馬車の記憶が混同しているのかもしれない。実際はベルであったかもしれない。しかし角笛であったような気がするというわけはこの馬車の記憶に結びついて離れることのできない妙な連想があるからである。それは、そのころどこかからもらった高価な舶来ビスケットの箱が錠前付きのがんじょうなブリキ製であったが、その上面と四方の面とに実に美しい油絵が描かれていた。その絵の一つが英国の田舎《いなか》の風景で、その中に乗客を満載した一台の郵便馬車《メールコーチ》が進行している。前世紀の中ごろあたりの西洋といえば想像されるような特別な世界が、この方四五寸の彩色美しい絵の中に躍動しているのである。この小さな菓子箱のふたを通してのぞいた珍しい世界がどんなに美しくなつかしいものであったか、ずっと晩年にほんとうの西洋へ行って見ても、この「夢の西洋」はどこにもなかった。この菓子箱のふたは自分の幼時の「緑の扉《とびら》」であったのである。それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座《ぎんざ》の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れない連想の糸でつながり合っているのである。
明治十九年にはもう東京を去って遠い南海の田舎に移った。そうして十年たった明治二十八年の夏に再び単身で上京して銀座《ぎんざ》尾張町《おわりちょう》の竹葉《ちくよう》の隣のI家の二階に一月ばかりやっかいになっていた。当時父は日清戦役《にっしんせんえき》のために予備役で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区《こうじまちく》平河町《ひらかわちょう》のM旅館に泊まっていたのである。
Iの家の二階や階下の便所の窓からは、幅三尺の路地を隔てた竹葉の料理場でうなぎを焼く団扇《うちわ》の羽ばたきが見え、音が聞こえ、においが嗅《か》がれた。毘沙門《びしゃもん》かなんかの縁日にはI商店の格子戸《こうしど》の前に夜店が並んだ。帳場で番頭や手代や、それからむすこのSちゃんといっしょに寄り集まっていろいろの遊戯や話をした。年の若い店員の間には文学熱が盛んで当時ほとんど唯一であったかと思われる青年文学雑誌「文庫」の作品の批評をしたりしたことであった。中でいちばん年とった純下町型のYどんは時々露骨に性的な話題を持ち出して若い文学少年たちから憤慨排斥された。夜の三時ごろまでも表の人通りが絶えず、カンテラの油煙が渦巻《うずま》いていた。明け方近くなっても時々郵便局の馬車がけたたましい鈴の音を立てて三原橋《みはらばし》のあたりを通って行った。奥の間の主人主婦の世界は徳川時代とそんなに違わないように見えた。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽《おとわ》の親類とお寺へ年に一度行くくらいのものであった。ほとんどわが子のように自分をかわいがってくれたが、話をすることがわからないので困った。自分の世界の事を相手が全部知っているという仮定を置いての話であるからわかりにくいのであった。
むすこのSちゃんに連れられては京橋《きょうばし》近い東裏通りの寄席《よせ》へ行った。暑いころの昼席だと聴衆はほんの四五人ぐらいのこともあった。くりくり坊主の桃川如燕《ももかわじょえん》が張り扇で元亀《げんき》天正《てんしょう》の武将の勇姿をたたき出している間に、手ぬぐい浴衣《ゆかた》に三尺帯の遊び人が肱枕《ひじまくら》で寝そべって、小さな桶形《おけがた》の容器の中から鮓《すし》をつまんでいたりした。西裏通りへんの別の寄席《よせ》へも行った。伊藤痴遊《いとうちゆう》であったかと思う、若いのに漆黒の頬髯《ほおひげ》をはやした新講談師が、維新時代の実歴談を話して聞かせているうちに、偶然自分と同姓の人物の話が出て来た。Sが笑い出したら、講談師も気がついたか自分の顔ばかり見ながらにやにやして話をつづけた。
銀座《ぎんざ》の西裏通りで、今のジャーマンベーカリの向かいあたりの銭湯へはいりに行っていた。今あるのと同じかどうかはわからない。芸者がよく出入りしていた。首だけまっ白に塗ってあごから上の顔面は黄色ないしは桃色にして、そうして両方のたぼを上向きにひっくらかえしているのが田舎《いなか》少年の目には不思議に思われた。それから、五丁目あたりの東側の水菓子屋で食わせるアイスクリームが当時の自分には異常に珍しくまたうまいものであった。ヴァニラの香味がなんとも知れず、見た事も聞いた事もない世界の果ての異国への憧憬《どうけい》をそそるのであった。それを、リキュールの杯ぐらいな小さなガラス器に頭を丸く盛り上げたのが、中学生にとってはなかなか高価であって、そうむやみには食われなかった。それからまた、現在の二葉屋《ふたばや》のへんに「初音《はつね》」という小さな汁粉屋《しるこや》があって、そこの御膳汁粉《ごぜんじるこ》が「十二か月」のより自分にはうまかった。食うという事は知識欲とともに当時の最大の要事であったのである。
父に連れられてはじめて西洋料理というものを食ったのが、今の「天金《てんきん》」の向かい側あたりの洋食店であった。変な味のする奇妙な肉片を食わされたあとで、今のは牛の舌だと聞いて胸が悪くなって困った。その時に、うまいと思ったのは、おしまいの菓子とコーヒーだけであった。父に連れられて「松田《ま
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