つだ》」で昼食を食ったのもそのころであったように思う。玉子豆腐の朱わんのふたの裏に、すり生姜《しょうが》がひとつまみくっつけてあったことを、どういうわけか覚えている。父が何かしらそれについて田舎と東京との料理の比較論といったようなものをして聞かせたようであった。
 天狗煙草《てんぐたばこ》が全盛の時代で、岩谷《いわや》天狗の松平《まつへい》氏が赤服で馬車を駆っているのを見た記憶がある。店の紅殻色《べんがらいろ》の壁に天狗の面が暴戻《ぼうれい》な赤鼻を街上に突き出したところは、たしかに気の弱い文学少年を圧迫するものであった。松平氏は資本家で搾取者であったろうが、彼の闘志と赤色趣味とは今のプロレタリア運動にたずさわる人々と共通なものをもっていた。しかしまたピンヘッドやサンライズを駆逐して国産を宣伝した点では一種のファシストでもあったのである。彼もたしかに時代の新人ではあった。
 旧時代のハイカラ岸田吟香《きしだぎんこう》の洋品店へ、Sちゃんが象印の歯みがきを買いに行ったら、どう聞き違えたものか、おかしなゴム製の袋を小僧がにやにやしながら持ち出したと言って、ひどくおかしがって話したことを思い出す。Sは口ごもって、ひどくはにかんだように物を言う癖があったのである。幼い岸田|劉生《りゅうせい》氏があるいはそのころ店先をちょこちょこ歩いていたかもしれないという気がする。
 新橋《しんばし》詰めの勧工場がそのころもあったらしい。これは言わば細胞組織の百貨店であって、後年のデパートメントストアの予想《アンチシペーション》であり胚芽《エンブリオ》のようなものであったが、結局はやはり小売り商の集団的|蜂窩《ほうか》あるいは珊瑚礁《さんごしょう》のようなものであったから、今日のような対小売り商の問題は起こらなくても済んだであろう。とにかく、これは、田舎者《いなかもの》が国へのみやげ物を物色するには最も便利な設備であった。それから考えると、東京市民の全部がことごとく「田舎者」になった今日、デパートの繁盛するのは当然であろう。ただ少数な江戸っ子の敗残者がわざわざ竹仙《ちくせん》の染め物や伊勢由《いせよし》のはき物を求めることにはかない誇りを感ずるだけであろう。しかしデパートの品物に「こく」のある品のまれであることも事実である。
 明治三十二年の夏、高等学校を卒業して大学にはいったのでちょうど四年目に再び上京した。谷中《やなか》の某寺に下宿をきめるまでの数日を、やはり以前の尾張町《おわりちょう》のI家でやっかいになった。谷中へ移ってからも土曜ごとにはほとんど欠かさず銀座《ぎんざ》へ泊まりに行った。当時、昔の鉄道馬車はもう電車になっていたような気がするが、「れんが」地域の雰囲気《ふんいき》は四年前とあまり変わりはなかったようである。ただ中学生の自分が角帽をかぶり、少年のSちゃんが青年のS君になっていつのまにか酒をのむことを覚えていたくらいであった。熊本《くまもと》で漱石先生に手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり根岸《ねぎし》の子規庵《しきあん》をたずねたりしていたころであったから、自然にI商店の帳場に新俳句の創作熱を鼓吹したのかもしれない。当時いちばん若かったKちゃんが後年ひとかどの俳人になって、それが現に銀座|裏河岸《うらがし》に異彩ある俳諧《はいかい》おでん屋を開いているのである。
 鍋町《なべちょう》の風月《ふうげつ》の二階に、すでにそのころから喫茶室《きっさしつ》があって、片すみには古色|蒼然《そうぜん》たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。おまんじゅうはすなわちシュークリームであったのである。シューというのはフランス語でキャベツのことだとS君が当時フランス語の独修をしていた自分に講釈をして聞かせた。
 運命の神様はこの年から三十余年後の今日までずっと自分を東京に定住させることにきめてしまった。明治四十二年から四年へかけて西洋へ行っている間だけがちょっと途切れてはいるが、心持ちの上では、この明治三十二年以後今日まではただひとつながりの期間としか思われない。従って自分の東京と銀座に関する記憶は、※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]――のような三つの部分から成り立っている。この最後の長線はどこまで続くか不明である。第一の短線と第二の短線との間が約十年でこの二つははっきり分かれている。第二短線と第三長線との間は四年しかないので、第三線の初めごろの事がらがどうかすると第二線内の事がらの中に紛れ込んで混同する恐れがある。第三線の長さは約三十年であるが、事がらによっては三十年前がつい近ごろのように思われ、また事がらによっては去年の事が十年前のようにも思われる。ひとつながりの記憶の蛇形池《サーペンタイン》の中で「記憶の対流《コンヴェクション》」とでもいったようなものが行なわれるらしい。
 第三線にはかなりの幅がある。自分が世間に踏み出してからの全生涯《ぜんしょうがい》がこの線の中に含まれているからである。そうしてこの線を組織するきわめて微細な繊維のようになった自分の「銀座《ぎんざ》線」とでもいったようなものがあり、これが昔の※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]の中の銀座の夢につながっているのである。この※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]の中では銀座というものが印象的にはかなり重要な部分を占めていた、それの影響が後年の――の中の自分の銀座観に特別の余波を及ぼしていることはたしかである。
 震災以後の銀座には昔の「煉瓦《れんが》」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の故郷の一つであったIの家はとうの昔に一家離散してしまったが家だけは震災前までだいたい昔の姿で残っていたのに今ではそれすら影もなくなってしまい、昔|帳場格子《ちょうばごうし》からながめた向かいの下駄屋《げたや》さんもどうなったか、今|三越《みつこし》のすぐ隣にあるのがそれかどうか自分にはわからない。十二か月の汁粉屋《しるこや》も裏通りへ引っ込んだようであったがその後の消息を知らない。足もとの土でさえ、舗装の人造石やアスファルトの下に埋もれてしまっているのに、何をなつかしむともなく、尾張町《おわりちょう》のあたりをさまよっては、昔の夢のありかを捜すような思いがするのである。
 谷中《やなか》の寺の下宿はこの上もなく暗く陰気な生活であった。土曜日に尾張町へ泊まりに行くと明るくて暖かでにぎやか過ぎて神経が疲れたが、谷中《やなか》へ帰るとまた暗く、寒く、どうかすると寒の雨降る夜中ごろにみかん箱のようなものに赤ん坊のなきがらを収めたさびしいお弔いが来たりした。こういう墓穴のような世界で難行苦行の六日を過ごした後に出て見た尾張町《おわりちょう》の夜の灯《ひ》は世にも美しく見えないわけに行かなかったであろう。今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座《ぎんざ》の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。自分の知った範囲内でも、人からは仙人《せんにん》のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰《じんかん》を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。F屋|喫茶店《きっさてん》にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである。
 アルプスと言えば銀座《ぎんざ》にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である。そうして夏の暑い日にその屋上へあがれば地上百尺、温度の一度や二度ぐらいは低い。上には青空か白雲、時には飛行機が通る。駿河《するが》の富士や房総《ぼうそう》の山も見える日があろう。ついでに屋上さらに三四百尺の鉄塔を建てて頂上に展望台を作るといいと思う。その側面を広告塔にすれば気球広告よりも有効で、その料金で建設費はまもなく消却されるであろう。高い所に上がりたがるのは人間というものに本能的な欲望である。この欲望は赤ん坊の時からすでに現われる。自分が四歳の時に名古屋《なごや》にいたころのかすかな思い出の中には、どこか勝手口のような所にあった高い板縁へよじ上ろうよじ上ろうとしてあせったことが一つの重大な事項になっているのである。これに似た記憶は多くの人に共通なものであろう。この本能を守り立てればアルピニストになれる。エヴェレストの頂上をきわめようとして、それがために貴重な生命をおとしても悔やまないようになる。それで、事によるとデパートのはやる理由のことごとくが必ずしも便利重宝一点張りのものでもないかもしれない。そうでないとすると小売り商の作戦計画にはこの点を考慮に入れなければなるまい。
 デパートアルプスには、階段を登るごとに美しい物と人との「お花畑」がある。勝手に取って持って来ることは許されないが、見るだけでも目の保養にはなる。千円の晴れ着を横目ににらんで二十銭のくけひもを買えば、それでその高価な帯を買ったような不思議な幻覚を生ずる事も可能である。陳列されてある商品全部が自分のもので、宅《うち》へ置ききれないからここへ倉敷料なしのただで預けてあると思えば、金持ち気分になりすますことも容易である。入用なときはいつでも「預かり証」と引き換えに持って帰ることができるのである。ただ問題は、肝心の時にその「預かり証」がなくなっていることである。
 アルプスにも山火事があるように、デパートにも火事がある。山火事は谷から峰へと燃え上がるが、また上から下へも燃えて行く。しかし、デパートの火事は下へは燃えないで、上へばかり燃え抜けるから、逃げ道さえあいていれば下へ逃げればよい。下へ逃げそこなったら頂上の岩山の燃え草のない所へ行けば安全である。白木屋《しろきや》の火事の時に、屋上が焼け落ちるかもしれないと言っておどかす途方もない与太郎があったそうであるが、鉄筋コンクリートの岩山は火には決して焼けくずれない。しかも熱伝導がきわめて悪いから下で半日焼けても屋上でははき物をはいた足の裏を焼けどする心配もない。窓からのぼる煙が渦巻いて来たら床の面へ顔をつければよいかと思われる。しかし、それも何千人と折り重なっては困るであろうし、また満員のデパートに急な火が起これば階段が人間ですし詰めになって閉塞《へいそく》してしまう恐れがある。映画館の火事でそういう実例がたびたびあった。そういう時にいちばんだいじなのは遭難者の訓練であるが、いちばんむつかしいのもまたその訓練である。
 火事は物質の燃焼する現象であるからやはり一種の物理化学的現象である。この現象は日本には特別多い。それだのに日本の科学者で火事の研究をする人の少ないのは不思議である。西洋の大学のどこにもまだ火災学という名前の講義をしている所がないからであるかもしれない。それはとに
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