内《うち》の闇《やみ》の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛《さんらん》たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのころすでにそんなものがあったかどうか事実はわからないが、自分の記憶の映画にはそういうことになっているのである。
 この銀座《ぎんざ》の冬の夜の記憶が、どういうものかひどく感傷的な色彩を帯びて自分の生涯《しょうがい》につきまとって来た。それにはおそらく何か深い理由があるであろうが、それに関する手がかりは、自分の意識の世界からはどうしても探り出すことができないのである。その日の事を特に強い印象として焼き付けるだけの「光線」があったであろう、その光線はとうの昔に消えて、一枚の印画だけが永久に残っているのである。人殺しをした瞬間に偶然机の上におかれてあった紙片の上の文字が、殺人者の脳に焼き付いたような印象となって残ったという話があるが、これに似た現象は存外きわめて普通なことであるかもしれない。幼時の記憶の断片にはたいてい何かしらそういう「光線」があって、そのほうは当時「意識」されなかったために記憶から消えてしまうのではないかと思われる。
 晩年になって母にたびた
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