界の事を相手が全部知っているという仮定を置いての話であるからわかりにくいのであった。
むすこのSちゃんに連れられては京橋《きょうばし》近い東裏通りの寄席《よせ》へ行った。暑いころの昼席だと聴衆はほんの四五人ぐらいのこともあった。くりくり坊主の桃川如燕《ももかわじょえん》が張り扇で元亀《げんき》天正《てんしょう》の武将の勇姿をたたき出している間に、手ぬぐい浴衣《ゆかた》に三尺帯の遊び人が肱枕《ひじまくら》で寝そべって、小さな桶形《おけがた》の容器の中から鮓《すし》をつまんでいたりした。西裏通りへんの別の寄席《よせ》へも行った。伊藤痴遊《いとうちゆう》であったかと思う、若いのに漆黒の頬髯《ほおひげ》をはやした新講談師が、維新時代の実歴談を話して聞かせているうちに、偶然自分と同姓の人物の話が出て来た。Sが笑い出したら、講談師も気がついたか自分の顔ばかり見ながらにやにやして話をつづけた。
銀座《ぎんざ》の西裏通りで、今のジャーマンベーカリの向かいあたりの銭湯へはいりに行っていた。今あるのと同じかどうかはわからない。芸者がよく出入りしていた。首だけまっ白に塗ってあごから上の顔面は黄色ないしは桃色にして、そうして両方のたぼを上向きにひっくらかえしているのが田舎《いなか》少年の目には不思議に思われた。それから、五丁目あたりの東側の水菓子屋で食わせるアイスクリームが当時の自分には異常に珍しくまたうまいものであった。ヴァニラの香味がなんとも知れず、見た事も聞いた事もない世界の果ての異国への憧憬《どうけい》をそそるのであった。それを、リキュールの杯ぐらいな小さなガラス器に頭を丸く盛り上げたのが、中学生にとってはなかなか高価であって、そうむやみには食われなかった。それからまた、現在の二葉屋《ふたばや》のへんに「初音《はつね》」という小さな汁粉屋《しるこや》があって、そこの御膳汁粉《ごぜんじるこ》が「十二か月」のより自分にはうまかった。食うという事は知識欲とともに当時の最大の要事であったのである。
父に連れられてはじめて西洋料理というものを食ったのが、今の「天金《てんきん》」の向かい側あたりの洋食店であった。変な味のする奇妙な肉片を食わされたあとで、今のは牛の舌だと聞いて胸が悪くなって困った。その時に、うまいと思ったのは、おしまいの菓子とコーヒーだけであった。父に連れられて「松田《まつだ》」で昼食を食ったのもそのころであったように思う。玉子豆腐の朱わんのふたの裏に、すり生姜《しょうが》がひとつまみくっつけてあったことを、どういうわけか覚えている。父が何かしらそれについて田舎と東京との料理の比較論といったようなものをして聞かせたようであった。
天狗煙草《てんぐたばこ》が全盛の時代で、岩谷《いわや》天狗の松平《まつへい》氏が赤服で馬車を駆っているのを見た記憶がある。店の紅殻色《べんがらいろ》の壁に天狗の面が暴戻《ぼうれい》な赤鼻を街上に突き出したところは、たしかに気の弱い文学少年を圧迫するものであった。松平氏は資本家で搾取者であったろうが、彼の闘志と赤色趣味とは今のプロレタリア運動にたずさわる人々と共通なものをもっていた。しかしまたピンヘッドやサンライズを駆逐して国産を宣伝した点では一種のファシストでもあったのである。彼もたしかに時代の新人ではあった。
旧時代のハイカラ岸田吟香《きしだぎんこう》の洋品店へ、Sちゃんが象印の歯みがきを買いに行ったら、どう聞き違えたものか、おかしなゴム製の袋を小僧がにやにやしながら持ち出したと言って、ひどくおかしがって話したことを思い出す。Sは口ごもって、ひどくはにかんだように物を言う癖があったのである。幼い岸田|劉生《りゅうせい》氏があるいはそのころ店先をちょこちょこ歩いていたかもしれないという気がする。
新橋《しんばし》詰めの勧工場がそのころもあったらしい。これは言わば細胞組織の百貨店であって、後年のデパートメントストアの予想《アンチシペーション》であり胚芽《エンブリオ》のようなものであったが、結局はやはり小売り商の集団的|蜂窩《ほうか》あるいは珊瑚礁《さんごしょう》のようなものであったから、今日のような対小売り商の問題は起こらなくても済んだであろう。とにかく、これは、田舎者《いなかもの》が国へのみやげ物を物色するには最も便利な設備であった。それから考えると、東京市民の全部がことごとく「田舎者」になった今日、デパートの繁盛するのは当然であろう。ただ少数な江戸っ子の敗残者がわざわざ竹仙《ちくせん》の染め物や伊勢由《いせよし》のはき物を求めることにはかない誇りを感ずるだけであろう。しかしデパートの品物に「こく」のある品のまれであることも事実である。
明治三十二年の夏、高等学校を卒業して大学にはいったのでちょうど
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