四年目に再び上京した。谷中《やなか》の某寺に下宿をきめるまでの数日を、やはり以前の尾張町《おわりちょう》のI家でやっかいになった。谷中へ移ってからも土曜ごとにはほとんど欠かさず銀座《ぎんざ》へ泊まりに行った。当時、昔の鉄道馬車はもう電車になっていたような気がするが、「れんが」地域の雰囲気《ふんいき》は四年前とあまり変わりはなかったようである。ただ中学生の自分が角帽をかぶり、少年のSちゃんが青年のS君になっていつのまにか酒をのむことを覚えていたくらいであった。熊本《くまもと》で漱石先生に手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり根岸《ねぎし》の子規庵《しきあん》をたずねたりしていたころであったから、自然にI商店の帳場に新俳句の創作熱を鼓吹したのかもしれない。当時いちばん若かったKちゃんが後年ひとかどの俳人になって、それが現に銀座|裏河岸《うらがし》に異彩ある俳諧《はいかい》おでん屋を開いているのである。
鍋町《なべちょう》の風月《ふうげつ》の二階に、すでにそのころから喫茶室《きっさしつ》があって、片すみには古色|蒼然《そうぜん》たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。おまんじゅうはすなわちシュークリームであったのである。シューというのはフランス語でキャベツのことだとS君が当時フランス語の独修をしていた自分に講釈をして聞かせた。
運命の神様はこの年から三十余年後の今日までずっと自分を東京に定住させることにきめてしまった。明治四十二年から四年へかけて西洋へ行っている間だけがちょっと途切れてはいるが、心持ちの上では、この明治三十二年以後今日まではただひとつながりの期間としか思われない。従って自分の東京と銀座に関する記憶は、※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]――のような三つの部分から成り立っている。この最後の長線はどこまで続くか不明である。第一の短線と第二の短線との間が約十年でこの二つははっきり分かれている。第二短線と第三長線との間は四年しかないので、第三線の初めごろの事がらがどうかすると第二線内の事がらの中に紛れ込んで混同する恐れがある。第三線の長さは約三十年であるが、事がらによっては三十年前がつい近ごろのように思われ、また事がらによっては去年の事が十年前のようにも思われる。ひとつながりの記憶の蛇形池《サーペンタイン》の中で「記憶の対流《コンヴェクション》」とでもいったようなものが行なわれるらしい。
第三線にはかなりの幅がある。自分が世間に踏み出してからの全生涯《ぜんしょうがい》がこの線の中に含まれているからである。そうしてこの線を組織するきわめて微細な繊維のようになった自分の「銀座《ぎんざ》線」とでもいったようなものがあり、これが昔の※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]の中の銀座の夢につながっているのである。この※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]の中では銀座というものが印象的にはかなり重要な部分を占めていた、それの影響が後年の――の中の自分の銀座観に特別の余波を及ぼしていることはたしかである。
震災以後の銀座には昔の「煉瓦《れんが》」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の故郷の一つであったIの家はとうの昔に一家離散してしまったが家だけは震災前までだいたい昔の姿で残っていたのに今ではそれすら影もなくなってしまい、昔|帳場格子《ちょうばごうし》からながめた向かいの下駄屋《げたや》さんもどうなったか、今|三越《みつこし》のすぐ隣にあるのがそれかどうか自分にはわからない。十二か月の汁粉屋《しるこや》も裏通りへ引っ込んだようであったがその後の消息を知らない。足もとの土でさえ、舗装の人造石やアスファルトの下に埋もれてしまっているのに、何をなつかしむともなく、尾張町《おわりちょう》のあたりをさまよっては、昔の夢のありかを捜すような思いがするのである。
谷中《やなか》の寺の下宿はこの上もなく暗く陰気な生活であった。土曜日に尾張町へ泊まりに行くと明るくて暖かでにぎやか過ぎて神経が疲れたが、谷中《やなか》へ帰るとまた暗く、寒く、どうかすると寒の雨降る夜中ごろにみかん箱のようなものに赤ん坊のなきがらを収めたさびしいお弔いが来たりした。こういう墓穴のような世界で難行苦行の六日を過ごした後に出て見た尾張町《おわりちょう》の夜の灯《ひ》は世にも美しく見えないわけに行かなかったであろう。今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。みんな心の中に何
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