内《うち》の闇《やみ》の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛《さんらん》たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのころすでにそんなものがあったかどうか事実はわからないが、自分の記憶の映画にはそういうことになっているのである。
 この銀座《ぎんざ》の冬の夜の記憶が、どういうものかひどく感傷的な色彩を帯びて自分の生涯《しょうがい》につきまとって来た。それにはおそらく何か深い理由があるであろうが、それに関する手がかりは、自分の意識の世界からはどうしても探り出すことができないのである。その日の事を特に強い印象として焼き付けるだけの「光線」があったであろう、その光線はとうの昔に消えて、一枚の印画だけが永久に残っているのである。人殺しをした瞬間に偶然机の上におかれてあった紙片の上の文字が、殺人者の脳に焼き付いたような印象となって残ったという話があるが、これに似た現象は存外きわめて普通なことであるかもしれない。幼時の記憶の断片にはたいてい何かしらそういう「光線」があって、そのほうは当時「意識」されなかったために記憶から消えてしまうのではないかと思われる。
 晩年になって母にたびたび聞かされたところによると、当時の自分はひどく鉄道馬車に乗るのが好きで、時々書生や出入りのだれかれに連れられてはわざわざ乗りに行ったものだそうである。雨の降る日に二条の鉄路の中央のひどいぬかるみの流れを蹴《け》たててペンキ塗りの箱車を引いて行く二頭のやせ馬のあわれな姿や、それが時々爆発的に糞《ふん》をする様子などを思い出すことはできる。鉄路が悪かったのか車台の安定が悪かったのか、車は前後におじぎをするように揺れながら進行する。車掌が豆腐屋のような角笛《つのぶえ》を吹いていたように思うが、それはガタ馬車の記憶が混同しているのかもしれない。実際はベルであったかもしれない。しかし角笛であったような気がするというわけはこの馬車の記憶に結びついて離れることのできない妙な連想があるからである。それは、そのころどこかからもらった高価な舶来ビスケットの箱が錠前付きのがんじょうなブリキ製であったが、その上面と四方の面とに実に美しい油絵が描かれていた。その絵の一つが英国の田舎《いなか》の風景で、その中に乗客を満載した一台の郵便馬車《メールコーチ》が進行している。前世紀の中ごろあたりの西洋といえば想像されるような特別な世界が、この方四五寸の彩色美しい絵の中に躍動しているのである。この小さな菓子箱のふたを通してのぞいた珍しい世界がどんなに美しくなつかしいものであったか、ずっと晩年にほんとうの西洋へ行って見ても、この「夢の西洋」はどこにもなかった。この菓子箱のふたは自分の幼時の「緑の扉《とびら》」であったのである。それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座《ぎんざ》の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れない連想の糸でつながり合っているのである。
 明治十九年にはもう東京を去って遠い南海の田舎に移った。そうして十年たった明治二十八年の夏に再び単身で上京して銀座《ぎんざ》尾張町《おわりちょう》の竹葉《ちくよう》の隣のI家の二階に一月ばかりやっかいになっていた。当時父は日清戦役《にっしんせんえき》のために予備役で召集され、K留守師団に職を奉じながら麹町区《こうじまちく》平河町《ひらかわちょう》のM旅館に泊まっていたのである。
 Iの家の二階や階下の便所の窓からは、幅三尺の路地を隔てた竹葉の料理場でうなぎを焼く団扇《うちわ》の羽ばたきが見え、音が聞こえ、においが嗅《か》がれた。毘沙門《びしゃもん》かなんかの縁日にはI商店の格子戸《こうしど》の前に夜店が並んだ。帳場で番頭や手代や、それからむすこのSちゃんといっしょに寄り集まっていろいろの遊戯や話をした。年の若い店員の間には文学熱が盛んで当時ほとんど唯一であったかと思われる青年文学雑誌「文庫」の作品の批評をしたりしたことであった。中でいちばん年とった純下町型のYどんは時々露骨に性的な話題を持ち出して若い文学少年たちから憤慨排斥された。夜の三時ごろまでも表の人通りが絶えず、カンテラの油煙が渦巻《うずま》いていた。明け方近くなっても時々郵便局の馬車がけたたましい鈴の音を立てて三原橋《みはらばし》のあたりを通って行った。奥の間の主人主婦の世界は徳川時代とそんなに違わないように見えた。主婦は江戸で生まれてほとんど東京を知らず、ただ音羽《おとわ》の親類とお寺へ年に一度行くくらいのものであった。ほとんどわが子のように自分をかわいがってくれたが、話をすることがわからないので困った。自分の世
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