「るような根本の問題にはなんの役にも立たないものである。だれかこの疑問に対して自分のふに落ちるような解釈をしてくれる人はないものだろうか。たとえばいわゆる共産主義を論じる学者たちが現在の社会に行なわれているこの万引きというものをいかに取り扱うかが聞きたいものである。
 三越へ来て、数千円の帯地や数百円の指輪を見たり、あるいは万引きの事を考えたりしているとだれかが言った寝言のようななぞのような言葉に、多少の意味があるような気がする。「富む事は美徳である。富者はその美徳をあまり多く享有する事の罪を自覚するがゆえに、その贖罪《しょくざい》のために種々の痴呆《ちほう》を敢行して安心を求めんとする。貧乏は悪徳である、貧者はその自覚の抑圧に苦しみ、富の美徳を獲得せんと焦慮するために働きあるいは盗み奪う……」
 呉服の地質の種類や品位については全く無知識な自分も、染織の色彩や図案に対しては多少の興味がある。それで注意して見ると、近ごろ特に欧州大戦が始まって後に、三越などで見かける染物の色彩が妙に変わって来たような気がする。ある人は近ごろはこんな色が流行すると言った。しかしある人はまた戦争のために染料
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